落合四郎

ピアノを弾きます。2023年10月にカメラを手にして写真を撮り始めました。

落合四郎

ピアノを弾きます。2023年10月にカメラを手にして写真を撮り始めました。

最近の記事

石田千 屋上がえり

私はどんな季節でも散歩が大好きだけど、こんな風に屋上を訪れてたのしむという嗜好は持ち合わせていない。そして生活環境外にある屋上にあがるのが好きだ、というひとに今までお目にかかったこともない。いや、本当は屋上愛好家は進んでそれを表明することはないというだけなのかもしれないが…。 屋上というのは建築のなかでも非日常に属するのではないだろうか。普段は立ち入り禁止だったり、権限がないと行けない場所。逆に自由に立ち入れるとしたらそこはなんらかの商業施設か規則のゆるい学校、あるいは建物ま

    • 堀井和子「小さな家とスイスの朝食」

      小さな家は、もちろんコルビジェの、レマン湖畔にある建築のことである。書籍「小さな家」をフランス語版と日本語版で愛蔵する堀井は、下調べをよくしなかったせいで(特定の日にちしか中を見ることができない)なんと建物のなかを見ることはできなかった。タイトルに入っているような場所があっさりと扱われてしまうことに大笑いしてしまうけれど、「朝食」のほうはこれでもか、というくらい素敵なものが滑らかに記され並んでいく。とりわけ、朝食のパン、晩餐のメインやサラダ。見る、味わうことへのわくわくがこん

      • 堀江敏幸「熊の敷石」

        リアルタイムで追い始めたわけではない(いや、いったい私はリアルタイムでつぶさに誰かの作品を追った、あるいは追っているなどという事実は未だ嘗てないのだけれど)作家の初期作に手を伸ばすのはどこか億劫だ。作風が違う、独特な青さがある等遠ざけてしまう理由には事欠かない。しかしこれはある程度のキャリアがあるからそう言えてしまうわけで、僅かな作品を残して筆を置かざるを得なかった作家には当て嵌まらないはずだ。そして、音楽作品においてよく言われるように、デビューアルバムにはそのひとの全てが詰

        • 赤木明登「美しいもの」

          美しいものとは何だろうか。この甘美で恐ろしく、果てのない問いを塗師である著者はエッセイともインタビュー集ともつかない一冊で朴訥と繰り返している。まえがきにあるように「もちろん答えはすぐには返ってきません。」 美は結果なのか、過程なのか。対象にあるのか、見る側にあるのか。善悪なのか。絶対/相対なのか…等。それは自然と人の関係にも思い巡らす事柄でもある。 問いかけ、考え、言葉を返す。陶芸家、リュート奏者、デザイナー、社会経済学者、木地師、エッセイスト、鍛金師…14人のことばは、

        石田千 屋上がえり

          堀井和子「アァルトの椅子とジャムティー」

          正直に言うとこの本を手に取るまで堀井和子という人のことを何も知らなかった。少し遠いところから話をはじめると、数年前から日々の料理は自分が作っているけれど、どうにも踏み越えられない敷居があって、興味を持って知ろうとしたり、生活の中に手繰り寄せることができなかった。料理や台所のこと。お菓子作り。それから雑貨。 本を買うことは自分の大いなるたのしみだけれど、本の領域に限ってもそれらを扱ったものは自分の棚に収まることはなかった。私ではなく、あなたのもの、と長らく先入観を持ってきたのか

          堀井和子「アァルトの椅子とジャムティー」

          岡村恭子「ヤコブセンの家」

          アルネ・ヤコブセンのチェア、ランプ、時計、キッチンツールの何れかを所有する人、あるいはデンマークに足を運んで彼の設計した公共建築を目にした人はまあ、それなりにいるだろうなと想像する。家具類について言えば、リプロダクトやコピーだって散々出回っているわけだし、それらを含めるとヤコブセンの作ったイメージを視認する機会は少なくない。 しかし、彼の建築に住んでいるひとというのはいったい何人くらいいるのだろうか。ヤコブセンが個人宅をいくつくらい設計したのか寡聞にして知らないので実数の大ま

          岡村恭子「ヤコブセンの家」

          平松洋子「野蛮な読書」

          ディスクガイドは好きなものが結構あるけれど、ブックガイドだったり書評集と言うものが私の手元には殆どない。何故だろう。強いて言うなら坪内祐三の『新書百冊』と、須賀敦子の『本に読まれて』くらいだろうか。どちらもとても好きで、何度も読み返している。精確に言うならばこの二冊は読書エッセイ、あるいはコラムという類ではないかと思う。本書、『野蛮な読書』もその範疇にある本と言って差し支えないはずだ。 題はレヴィ=ストロースをもじったのだろうかと安易な連想をしてみる。それにしても読後の、時が

          平松洋子「野蛮な読書」

          岡本仁「ぼくの鹿児島案内。」

          ひとり旅は苦手な方だと思う。もう10年くらい、したことがない。そもそも旅自体あまりしたことがない気がする。海外に出たことがないし、本州を出たのも高校の修学旅行先である沖縄だけ。北海道にも四国にも親戚がいるけれど足を踏み入れたことはない。九州はといえば拠点を大分に移した友人が早く来なよと誘ってくれているけれど、数年来実現していない。魚と豚骨ラーメン、鶏がいかに美味しいか事あるごとに口にするので夢にまで出そうだ。ああ、早く行きたいな。私の条件が揃ってもこの状況では暫くは不可能だろ

          岡本仁「ぼくの鹿児島案内。」

          多和田葉子「百年の散歩」

          松永美穂さんが解説で書かれているけれど、ベルリンにはなんと多くの通り(や広場)があることだろう。つぶさに調べたわけではないが、本書の各編に付された題には人名を冠した通りの名前も多い。私はかなり散歩が好きな方だと思うけれど東京で、そんなところをパッと挙げることはできない。それともごっそり記憶から抜け落ちているのだろうか。それはそれで興味深いことではあるけれど。 散歩とは観察の目のことだと思う。ここでも「私」が普段からよく来ている場所にも関わらずこれまで見落としていたことや、思考

          多和田葉子「百年の散歩」

          堀江敏幸「燃焼のための習作」

          堀江敏幸「燃焼のための習作」を読む。私は堀江さんの文章がとても好きだ。にも関わらず、手軽に買える文庫であっても未読のものが結構ある。なんだか一気に読むのが勿体ないと思ってしまうのは何故だろう。そろそろかなと思ったときに小口に指を掛け、取り出す。なるべくちびちびとやりたい。そういう距離感と時機の到来を心地よく感じるのだ。 最初のページの片隅に記された枕木、という妙な名前で、「河岸忘日抄」に登場したあの枕木さんかと膝を打つ。豪雨の中足留めされ、便利屋みたいな探偵(ほんとうは逆かも

          堀江敏幸「燃焼のための習作」

          石田千「月と菓子パン」

          石田千「月と菓子パン」を読む。今まで食わず嫌いしていた作家だけど、古本やで(作者の表記に敬意を表すなら屋ではなく「や」だ)山本容子だ、とすぐにわかる表紙に惹かれて手に取った文庫本。下町を中心に描いたエッセイで、やっぱり東側の情緒はいいなと思いつつ読み進むと、中頃から見知った地名がポロポロでてきて驚いた。水元公園、江戸川、千住、あらかわ遊園、木場、万世橋、九段、駒場…。そのどれもが私も馴染みのある街で、毎日目にしていたところだってある。 石田さんは金町に住んでいたんだ。ハタと気

          石田千「月と菓子パン」