岡村恭子「ヤコブセンの家」

アルネ・ヤコブセンのチェア、ランプ、時計、キッチンツールの何れかを所有する人、あるいはデンマークに足を運んで彼の設計した公共建築を目にした人はまあ、それなりにいるだろうなと想像する。家具類について言えば、リプロダクトやコピーだって散々出回っているわけだし、それらを含めるとヤコブセンの作ったイメージを視認する機会は少なくない。
しかし、彼の建築に住んでいるひとというのはいったい何人くらいいるのだろうか。ヤコブセンが個人宅をいくつくらい設計したのか寡聞にして知らないので実数の大まかな把握すらできないのだけれど、上記の製品群を所有する人数と比較すると圧倒的に少ないのは確かだろう。
岡村恭子さんとその一家はその稀少な一例である。ヤコブセンの家に暮らすというのがどういう経験なのか、日本語で読める、そしてこの著者の文章で読めるのは僥倖と言う他ない。クレジットがないので推測だが、ご本人に依るものだろう数々の写真がとても素敵で、祖父江慎+cozfishの造本もまたそれを引き立てて余りある。普段暮らしているひとの目線の高さで、写され綴られる建物と暮らしを目に浮かべることができるのはとても嬉しい。
ソンビューベスタの家との俄かには信じ難い、偶然の差配による出会いと入居後の苦難にはじまりデンマークの四季と彼の国の習慣を横糸に、家族史を縦糸にこの本は移ろっていく。夫君のこと、デンマークにやって来た日、娘の彩さんの教育、現地で出来た友人たち、受け入れをした留学生との交流。時折挟み込まれるデンマークの家庭料理のレシピ、庭仕事やインテリア、キッチンのこと。冬時間、クリスマス。ヤコブセンの家の不便さを慈しむこと。
なかなかできることではないな、と思うのはこの飾らなさだと思う。ヤコブセンの家に住まうことはステータスではなく、この上ない贈り物だったという気持ちがひしひしと伝わってくる。雑貨屋さんから学んだ「ベーシック」、雨に濡れてた砂色ソファ、という二つの項は岡村夫妻の在り方が端的にあらわれていて、納得できる暮らしとはどういうことなのかという考え方のひとつの見解として、私にはとても心地いいもののように感じられる。ブランド名の見えないラベルを無神経にべたべたと貼り付けた生活とは対極にあるそれは、「ていねいさ」と似て非なる開かれた確かさのように思う。

岡村恭子さんの著書がこの一冊しかない、という事実が私には信じられない。もののあわいをそっと掬い取る眼差しの 風合いと、飾らない上品なですます調(こんなに読ませるですます調があるだろうか。)の文体。この本も出版元が潰えてしまって新刊書店では手に入らない。どこか、彼女に声をかける出版社はないだろうか。読み終わってからその存在を知った彼女のブログの最新更新は昨年の一月。私はそれを遡って読み漁りたい気持ちと、紙の本で読みたい気持ちに引き裂かれてブックマークをしただけで先に進まない。もう少しこのままでもいいのかもしれないと思ってもいる。

この文章を書くためにプロフィール欄を読んで驚いた。岡村さんは私の母と同じ1950年生まれであった。彼女たちの個性を生まれた年で結びつけるのは野暮だと承知の上で、母から定期的に来るメールに描かれた季節の変化、散歩で目にしたもの、家の内外の植物のこと、父や妹の暮らしぶりが、どこかこの本の空気と寄り添っているようで感傷的な気分になる。
母もまたですます調でそれを書いて寄越すという事実に行き当たって、膝を打つ。私はこの本を、彼女たちがかつて誰彼に向けて幾度も幾度も書いたであろう手紙の、あり得たひとつの可能性として読んでいるのかもしれない。

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