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自分に対しての説明がついてしまう物語

 最近、Noteの記事で読んだもので、非常に心に残ったものがあります。タイトルについての記載はいたしません。

 私自身が、その記事を読んで思ったことは、今までの自分の苦しみに対して、説明がついてしまう物語に出会ってしまうと、その物語に縛られてしまう、ということです。こういうこと自体は、私は、否定をする気もないですし、それによって、幸福に生きることができるのであれば、それもいいのかな、と思います。

 ただし、物語に縛られることは、決して、いい面ばかりではないと思います。特に「自分の苦しみ」に対して、あまりにも説明がついてしまい、そこには敵がいる、とする場合があります。その物語に縛られてしまうと、結局、自分の苦しみを作り出す敵とされる存在に対して、攻撃をしたり、憎んだり、いかにして仕返しをするか、、、と、あまりよくないように思います。物語によって、敵が作り出されるということなんだと思います。物語によって、世の中の見え方がかわるんでしょうね。その敵とみなす存在が身近であればあるほど、幸福にはなれないように思います。つまり、自分の苦しみを作り出す敵を想定する物語は、「幸せになれない物語」なんじゃないかな、と思います。

 私自身は、苦しくなってしまい幸福になれないことは、嫌なことだし、避けたいことだと思っています。幸せになれる物語に出会い、その物語によって、生きていくのが、いいのかな。といっても、それってなんなんだろうなって思います。

 自分の悪いところがあり、あまりにもことがうまく運びすぎると、何かおかしいという警戒スイッチが入ります。これって幸せになりたいと思いながらも、自分が幸せになることを避けていたり、怖れていたりするのかなって思います。なぜかと考えてみると、警戒スイッチを入れず、そのまま進んだ先に失敗があるのが怖いんじゃないかな。結局、リスクを取ることから逃げている気がします。そう考えると、幸せになる物語があったとしても、それを受け入れない私かもしれませんね。そこに根本的な問題があるように思えます。

 こういう文章を書いていると知り合いからオススメされていて、購入してから、積読になっている千野帽子さんの本を読まねばならないな、と思ってしまします。


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