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Lemon drive

 真夜中に響く小さなアラーム。
 かちりと止めて、眠たい瞼をこする。

 タオルケットを折り畳み、爪先を伸ばしてフローリングにとん、と降り立った。そのまま音を立てないよう、階段にするするパジャマの裾を引きずって、暗い廊下を手探りでバスルームへと向かう。顔を洗って、どれよりも軽い服を選んで着て、髪を梳かして、お水を飲んだ。リュックを抱えて半分は眠りながら、もうすぐ迎えに来る君を待つ。


 時計は2時を指していた。
 
 消音にしたインターホンが、青い輪郭を朧に纏った亡霊みたいな君を浮かび上がらせる。君の表情は見えない。ドアからそっと顔だけ出したら目が合って、嬉しくて堪らないのを私たちはポーカーフェイスで紛らわす。

 「行くよ」
 「うん」


 君が中古で買った安っぽいレモン色の車(愛称:レモン・カー)に乗り込み、安っぽい音を立ててドアが閉まり、少しも柔らかくない安っぽいシートに身を預ける。君がハンドルを切る。カーナビもテレビもない。代わりに私が兄のお下がりの小さいラジカセをぴこぴこ押して、お互いの家に眠っていたカセットを順番にかける。知らない誰かの歌う、いつかのどこかの夏みたいな音楽を何曲も、黙って聴いた。道路は空いている。いくつもの角を曲がる。


 暗闇は少しずつ薄くなって、灰色のワンピースに散らしたビーズみたいな幾つかの星が、霞みがかった空に点々と残る。街のネオンは遠ざかって、工場ばかり、煙突ばかり。曇っていた空が晴れて、サイドミラーに蒼く聳える山並みが映るのを見て、なんだか泣きたくなった。がたがた鳴る窓を開けたら、ぶわんと風が吹き込んで、私は手でガードしたけど、ハンドルを握ってる君の前髪はめちゃくちゃになる。もう、潮の匂いがした。


 深夜すぎの高速道路に、等間隔に伸びる街灯は、光を分けてくれる優しい恐竜。夜に黒く沈むコンクリートに伸びゆく黄色いライトを点けた車は、海底を泳ぐ深海魚。こんな中古の安物ではスピードが出せるわけもなく、冷凍トラックやバスが数台、私たちを次々と追い越していった。愛車に向かって、君はさんざん悪態をつく。私は笑う。たしかにこれは、フォロー出来ないくらいには遅い。それでもこの速度で、ずっとこんなドライブをして、夜が明けないでほしいような、そんな気もする。海をめざして、朝をめざして、私たちはここにいるのに。


 高速を下りてから一度も止まることなく車を走らせ、海まで、もう手を伸ばせば届きそうな距離。初めのうちは、空よりずっと暗い闇色をしている。日の出が近づくにつれ、空は徐々に澄んでゆく。1日の中で一番純度の高い空だ。次第に橙色がさして、雲が燃え始めるまでの。その下にくっきりと引かれた水平線、光が水平線に重なり、海の色は仄かに青みを増していった。人気のない海辺の、白いペンキの剥げたコンクリートの廃墟の横に車を停める。砂浜まで並んで歩くと、靴の底でさくざくと砂がくずれた。


 水色のビニールシートを広げると、そこだけ小さな四角いプールで、目の前の海に比べたら鰯と鯨ほども大きさに差があって可笑しい。体育座りで目を閉じて、背筋を伸ばして波の音を聴いた。さっきまで車でかかっていた誰かの歌が遠のいて、空が白み始める。紺に黄色が混ざり、ラベンダー色が混ざり、薄桃色に明度を上げて、今度は無色に近づいていく。白く薄く、明るい空に、ようやく太陽がほんの少し覗いた。遥か頭上を旋回する孤独な鳶と、群れる鴎たちの鳴き交わす声。
 

 瞬きする間も変化を続ける光景に、持ってきたお菓子にもサイダーにも手をつけないまま、片時も目が離せずにいる。いつもなら何も知らずに眠っている時間に、こうして刻一刻と景色は変化して、美しくも哀しくも、止まることなく時が確かに過ぎていることに陶然とする。巨大なマンダリンオレンジが水平線から半分ほど浮き上がり、桃色だった空がひと息に紅く燃え始める。波に乱反射する光がこちらに向かって輝き出して、閉じたくないのに目が開けられない。
 
 気温が少しずつ上がっても、吹き渡る海風が心地良くて、体のあることすら忘れていられた。君は風で、私は雲で、私たちは鳥だった。ここにある空も海も、今は私たちのものだった。君の目にも私の目にも、同じ橙色の光が煌めいていた。


 すっかり陽が昇って、車道を走る車の数が徐々に増えていく。シャッターがカラカラ開けられて、海町の飲食店が開店前の準備を始める。朝の早いひとたちの、生活の始まりの音がしたら、私たちは逆再生で元に戻る。もう一度、レモン・カーに収まって、今度は街の方角へハンドルを切った。フロントガラスには、すでに見慣れた青色に平然として他人行儀な空が横たわる。びゅんびゅん横切るバイクに追い越されながら、私たちを乗せた車は海から遠ざかっていく。大きな川に架かる鉄橋を渡って、いくつかの街を過ぎると、私の住む町になった。「またね」と手を振ったら、黙って微笑む君が寂しくて、急いで背を向けて玄関をくぐる。まだ誰も起きている気配はない。


 爪先歩きでうっすら明るんだバスルームに入り、ささやかな水量で手を洗って口をすすいで、再びパジャマに着替え直す。するする裾を引きずって階段を登り、音を立てずに部屋のドアを開け、ベッドにそっとすべり込む。カーテンの隙間から壁に照り返す朝の光の眩しさに、折り畳んだタオルケットを広げて頭まですっぽり包まった。
 
 瞼の裏は、夜の国道と海と空と鴎たちで一杯で、このまま眠りに落ちたら、私はきっと君の夢を見る。眠って起きて、すべてが一つの夢になっていたとしても、必ず君は、レモン色の車で何度でも、私を迎えに来てくれる。



・・・・・・・・


 午後から講義がある日は、朝にバイトを入れる。お客さんのいない店内、静謐なキッチンでの仕込み作業が私はすきだった。茎からほぐしたレタスを水に浸して、トマトを湯むきして、ゼラチンを溶かしてゼリーを固めて。

 一通りやることを終えたら、最後にレモンをスライスする。お客さんの紅茶のためのレモン。包丁の切れ味が悪いと上手くいかないけれど、今日は研いだばかりでさくさく切れた。

 薄く薄く、丁寧に切れば、輪切りのレモンがぱたぱた倒れて並ぶ。レモン色の車輪が何枚も。なぜかこれを見ると、何かを思い出しそうになる。それは現実か夢か、小説か、映画か、あるいは前世かもしれない。懐かしい、涼やかな記憶。遠くへ行きたい。



 「あがり? おつかれー」
 「授業4限からで」
 「彩渚さなっていつも眠そうだよね」
 「そうかな」
 「夢うつつな感じだし」
 「そう、かな」
 「あと髪、海みたいな匂いする」
 「…!?」



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