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【2000字短編】グラデーション

「東京の夕焼けって何色なのかな」

 穏やかな孤独に侵食された駅のホームで、私たちは1時間に1本しか来ない電車を待っていた。

「ここと同じじゃないの」と私。
「絶対に違うよ」と茜。
 何も言わず空を見上げる藍。

「東京の方が綺麗に決まってる」
「茜は東京に行きたいの」
「行くよ」
「どうして」
「ここには何もないから」
「東京には何かがあるの」
「あるよ」
「何が」
「何でも」

 私たちの会話を遮るようにカラスが鳴き、遠くの山の方へ飛んでいく。

「あー、早くこんなところ出て行きたい」

 茜が空を仰いだ。
 途方に暮れたような夕刻の音楽が、私たちの間を満たしていた。

 全部、覚えている。

 あの頃、私たちは高校生だった。
 限りない未来と果てしない退屈だけが、私たちを不自由たらしめる自由だった。

 私と茜と藍は、「放課後友達」だった。電車待ちの時間を一緒に過ごすだけの、緩い糸のような繋がりだった。

 ある日、ホームでぼーっと電車を待っていた私に、「ねえ暇?話さない?」と話しかけてきたのが茜だった。茜は隣のクラスの、比較的目立つかわいい女の子だった。ベンチで本を読んでいた藍のことも、ごく自然に巻き込んだ。藍は隣の隣のクラスの、茜がいなければ存在を知ることはなかったであろう、おとなしい男の子だった。3人とも部活に所属しておらず、乗る電車の時刻と方向が同じだったため、何となく駅のホームで待ち合わせて話すようになった。

 活発でお洒落な茜と、無口で穏やかな藍と、どちらにも振り切れない中途半端な私。グラデーションのような私たちは、不思議と気が合った。性格も話す速度も違うのに、一緒にいる時の酸素濃度が丁度良かった。

 茜は東京の大学を志望していた。渋谷を歩いて、かっこいいカフェでバイトをして、都会の洗練された男の子と恋をするんだと言って憚らなかった。

 藍は自分の志望校の話をしなかった。勉強ができることも本が好きなことも知っていたけれど、藍が将来何になりたいかという話は聞いたことがなかった。

「紫音はどうするの」
 セブンティーンアイスのストロベリー味を囓りながら茜が言い、

「遠くへ行きたいな」
 バニラ味の包装を剥がしながら、私は答えた。

「じゃあ紫音も東京志望?」
「いや、そういうわけじゃなくて」

 もっと、もっと遠く。

 物理的な遠くではなく、とにかく遠いところへ行きたかった。でもその感情を言葉にする能力を、17歳の私は持ち合わせていなかった。

「僕たちはどこにでも行けるよ、紫音」

 藍が口を開いた。ナタデココドリンクを片手に、私の目を覗き込んだ。

 その瞳には、何もかも見透かされているような気がした。藍は夜みたいな空気を纏っていて、時々その深さに吸い込まれてしまいそうになった。

 藍の言葉が、担任の言う「君たちには無限の可能性がある」という言葉とは違う種類のものだということはすぐに分かった。

 それが「どこにも行けない」と同義だと気づくのは、もう少し先だった。

「皆どこに行くんだろうね」

 茜が呟いた。夕焼けが、彼女の髪を憧れの金色に染めていた。東京に行かなくても髪は染められるよ、そう言う代わりに、溶け出したアイスクリームを囓った。セブンティーンじゃなくなったら、セブンティーンアイスを食べることは罪になるのだろうか。

 私が考えていることは、右隣にいる藍も、左隣にいる茜も知ることはないのだろうと思った。同時に、今2人が何を考えているのかも、私は知ることはできないのだと思った。

 けれどこの夕刻を、これから先何度も思い出すような気がした。いつか忘れてしまうとしても、忘れたくないと思ったことだけは、忘れないような気がした。

 たとえ私だけだとしても。

*

 結果、私たちは3人とも東京に行くことになった。茜は東京の大学に合格し、藍は有名私大の合格を蹴り、映像制作を学ぶ学校を選んだ。藍の夢が映画を作ることだったと、その時私は初めて知った。私は何の夢もないまま東京の大学を受け、何となく合格した。

「東京でも会おうよ」

 最後に会った時、茜は嬉しそうに言った。藍も私も笑って頷いた。

 でも、3人のLINEグループが動くことはなかった。

 すぐに私たちは、自分の生活に追われるようになった。もう同じ電車を待つこともなくなった。電車は一時間に何本もやってきた。

 インスタのストーリーに映る茜は、どんどん垢抜けていった。宣言通り髪を明るく染め、渋谷のカフェでバイトを始め、そのうち彼氏との投稿が目立つようになった。幸せそうだなと思っていたら、ある日アカウントが消えていた。LINEのアカウントも消えていた。

 藍に連絡しようとして、彼もLINEのアカウントを変更していたことを知った。「17:12発」と名付けられたグループに残されていたのは、私だけだった。

*

「皆、遠くへ行きたかったんだ」

 私は新宿駅の横断歩道の前で立ち止まり、ビルに切り取られた夕空を見た。茜色に紫が混じり、藍に染まっていくのを眺めた。

 2人は今でも、あの夕刻のことを思い出すことがあるのだろうか。もしかしたら人混みの中で、2人と知らないうちにすれ違っていたりするのだろうか。

 信号機が青になる。吐き出されたかのように、人々が動き出す。

 『本日上映・短編映画「夕空」』と書かれたチケットを握りしめ、空のグラデーションを焼き付けるように目を閉じ、私は2人が歩いた跡を見つけるために、もう一度目を開いて歩き出した。

眠れない夜のための詩を、そっとつくります。