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何もないはずの午後に

 言い訳ばかりして、積極的に、世界から、取り残されるようにして。


 取り巻く環境が激変していく。世界が姿を変えていく。それは遠くから訪れて、近くなる。忍び寄ってきたわけではなくて、足音は大きく、あわただしく、だけれど、それに気づかないふりをして、同じような毎日を繰り返していく。気づけば、すぐそこの日常に、影が差していた。

 とうとう職場にも僅かばかりではあるものの、短縮営業が訪れた。いつもと違う日々がくる。考えなければならないことは、きっと多い。だけど、もう私は、考えることを、忘れてしまったようで。考えるってどういうことだろう。そんな益体もないことを抱えながら、目の前の「いつも通り」にしか対応できない自分の頭を、罵って生きている。

 いつからそうだったのか、最初からそうだったのかもしれない、私はずいぶんと、楽観的だった。いずれ何とかなるだろう。そんな思いで日々を生きている。1か月後は、1日が29回訪れた後の、1年後は、1日が364日訪れたあとの、次の1日でしかなくて。そこには自分の変化も、周りの変化も、あるべき光景も、成したい想像も、なにもない。ただ、それでもたぶん、その364日の次の日も、私は生きているだろう、そのことだけを、確信している。

 私の手元には、大体、何も残らない。買ったものは消費する。お金は使えば消えていく。足りなければ、本を売る。持ち続けてきたものは、邪魔になる。惰性で生きるから、つながらない。考えることができないから、経験にもならない。あとに残るのは、捨てるのを面倒くさがったゴミだけだ。

 生きていくことに意味はあるのか。いつまでたっても、そこから抜け出せないでいる。

 だからといって、何もしなくていいわけではないし、生活を維持したいのなら、それ相応の努力が必要で。たぶん私は、未来が恐ろしくて、見ないようにしているのだろう。怠け者の私の、眼をふさぎたくなるような未来を。

 こうしていると、ふっと、仕事のことが頭をよぎる。あれは、どうすればいいだろう。これは、どうにかしたほうがいいのかな。結局答えが出ないまま、通り過ぎていくだけで、嫌な気分だけが積もっていく。向かい合う気も、どうにも、ない。クビにでもしてくれたほうが、いっそいい。

 世界中の混乱を見つめながら、それでも目の前しか見えてはいない。いずれ私の周りにも訪れえるのであろう恐慌。身に降りかかるであろう脅威。感染リスク、防止と予防、生活の確保。仕事でなくても、考えることはいくらでもあるはずなのに、すべての音が、遠くに聞こえる。


 昔の私はどうやって、何を感じて、生きていたのだろう。

 今の私は、どうしてこんなに恐れているのだろう。

 



 解決しないことばかりが、増えていく。それでも生きているから、やっていくしかなくて。嫌なことから目を背けるように、本を開くのだった。

 


いつも見ていてくださって、ありがとうございます。 役に立つようなものは何もありませんが、自分の言葉が、響いてくれたらいいなと、これからも書いていきます。 生きていけるかな。