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【ショートショート#3】天国への旅行

「次は~~天国~~天国です~~」

レトロな木造電車のなかに、車掌の声が響いた。
となりの少年が待ちきれずに、臙脂色の座席にひざ立ちになり、ぐっと力を込めて窓を開けた。ゴウ、と風の音が膨らんだ。清風が流れ込み、髪を揺らした。電車の足元で、バシャバシャと波の遊ぶ音が聴こえた。電車は海の上を走っていた。空は青々と透き通り、ところどころに綿あめのような白い雲が浮いていた。前方を見ると、少年の頭越しに緑の塊がみえた。
天国といっても、空を飛んで行くのではない。
それはただただ、海の果てにあった。

窓から流れる風が緩やかになった。甲高い音を立てて、電車が静止した。

「終点~~天国~~天国です~~。お降りの方は・・・」

電車は、ここで行き止まりだった。
アナウンスとともにドアが開き、少年が走ってドアに向かう。
私も座席から立ち上がり、コツコツと靴を鳴らしてドアに向かって歩いた。ドアから一歩踏み出すと、春の陽だまりのような温かな光が、全身を包んだ。

海を挟んで向こう側に、天国が見えた。
駅名は『天国』だったが、天国にじかに降りられるわけではなかった。停留所からみて、モノのかたちがおぼろげに分かるくらいの場所に天国はあり、海を渡ってそこに近づくことはできなかった。ふと足元を見ると、停留所の端から頭三つ分離れたところから、海は深い群青色に染まり、その深さが想像できた。聞いたところによると、停留所と天国の間にはひどく気まぐれな潮流があり、然るべきひとが然るべき時間にしか、そこを渡れないのだとか。

島には緑が生い茂り、なかに何があるのか、ここからでは殆ど見ることが叶わなかった。沿岸にひとらしきシルエットがひとつ佇んでいた。天国の住人だろうか。その影はあまりにも遠すぎて、何の表情も読めなかった。

リーン、と出発の合図が、電車から聞こえた。
曲をひとつ聞き終わるかくらいの、短い滞在だった。私もいずれ天国の地を踏むのだろうか。それはずっと先のことのような気もしたし、春の夢の終わりのように一瞬で訪れる気もした。

海岸のひとは相変わらずそこに立っていた。じっとこちらを見つめているようにも見えた。
その姿に後髪を惹かれながらも、私は帰りの列車に乗り込んだ。



***

特に深い意味はなく。
「こんなところに天国があったらいいなあ」と思って書きました。

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