【ショートショート】一夜限り

あんな風に女の子と寝たことは、後にも先にもなかった。
そのころ僕は、たいして有名でもない美大の学生だった。外見は不細工とまではいかないが、性格から滲み出る陰鬱さが漂っていた。だから、女の子に誘われることがあれば、よっぽどの物好きか、美人局を疑わなければならなかった。

彼女はそのどちらでもなかった。
いや、どちらかと言えば、物好きの方かもしれない。
高校時代の友達との集まりに、彼女はいた。学友のひとりというわけではない。友人のひとりが、「さっきまで一緒に飲んでいたから」と連れてきたのだった。
とびぬけた美人ではなかったが、人目を惹く外見をしていた。きっちり閉じた口元には気の強さが滲み出ており、二重瞼の大きな瞳はキラキラと周囲の光を反射していた。髪は華やかなバレッタで纏め上げられ、白いうなじが眩しく目に映った。くっきりと躰のラインがわかる濃い水色のサマーニットに、パンツが見えそうなくらい短い丈の白いタイトスカート。近づくと、艶やかな香水の匂いが鼻を掠めた。要するに、尻が軽そうなタイプではあった。

尻が軽そうとはいえ、僕みたいな人間が手出しできるかと言えばそんなことはなかったし、彼女をどうにかしたいという考えは頭の片隅に浮かんですらこなかった。彼女に魅力がなかったわけではないが、僕とは別世界の人間のような気がした。席はたまたま隣だったが、三時間の飲み会で話したことといえば、「つぎ何か飲みますか」という彼女の発言に対して、「はい」と答えたぐらいだ。話したといえるかも微妙だし、一言返しただけでは返答にすらなっていない。

何故そこから一夜をともにすることになったのか、自分でもよく分からない。

お酒に溺れる快楽さも、お酒を呑みすぎた二日酔いの苦しさを先に想像してしまうタチだったので、二次会には行かずに帰ることにした。僕のアパートは居酒屋から近かったので、歩いて帰ることにした。すると、彼女が「私もこちらの方面なのでいっしょに帰っていいですか?」と声を掛けてきた。
もし僕が身持ちの軽い男だったら、「彼女をお持ち帰りするのでは」と友人も目を光らせたと思う。しかし、僕は見ての通り冴えないタイプだったので、心配する必要もないと判断したのだろう。「見送ってやれ」と僕に言い残し、二次会へと向かっていった。
僕と彼女はあっさりと二人きりになった。

二人きりになっても、まったく会話はなかった。
息が窮屈になり、アパートまでの道のりはこんなに遠かっただろうかと苦々しく思った。あたりは閑静な住宅街で、僕たちの足音だけが寂しげに響いた。
自宅はどのあたりなのかと訊いてみたが、のらりくらりと躱された。そして、気が付くと二人で僕のアパートの前に立っていた。何号室?という彼女の質問に真面目に返答してしまい、我が家かのように堂々と部屋に上がり込んでくる彼女に、僕は何も言えなかった。

重ね重ね言うが、まったくどうしてこうなったのか分からない。少なくとも、僕にその気はなかったことは確かだ。

水でも飲むか、という僕の問いに答えることなく、彼女は僕をベッドに押し倒し、服を一枚一枚脱がせていった。僕は流石に焦って、口を開いた。
「金ならないよ」
彼女は、ふっと笑みを零した。
「野暮なこと言うわね。お金が目的なわけじゃないわ」
お金が目的でないなら、何が目的だというのだ。
彼女の心の裡が読めず、混乱した。彼女にいいところを見せた覚えはないし、彼女が僕に惹かれる要素はまったく思い浮かばなかった。
「実のところ、私だってこんなこと初めてで緊張しているの。こんなことって、初対面のひととこんなことをするのがね。こうみえて、意外と遊んでないのよ」
彼女は続けた。
「今日はたまたま性欲が強い日で、でもひとりで家でするのもさいきん虚しくなってきて。こんな事言うと失礼に聞こえるかもだけど、今日の飲み会であなたが一番無害そうだったから、あなたにしようと思ったの。口が硬そうだし、セックスで無茶な要求もしなそうだし」
一夜をともにする相手を選ぶ理由としては、どれも決め手に欠けるような気がした。女性に幻想を抱いている訳ではないが、果たしてそんなことで自分の身を他人に曝け出していいものなのだろうか。僕は判断しかねたが、彼女の方は腹を決めているようだった。
「集中して」
そういうと彼女は自らも服を脱ぎ、僕の身体を丹念に舐めていった。

気が付くと眠ってしまっていた。
目を覚まして時計を見ると、夜中の四時を示していた。横には彼女が寝息を立てて眠っていた。深い眠りの中にいるのか、全く起きる気配がなかった。マスカラは落ちて目の下が黒く滲み、解けた髪はボサボサになっていた。眠っている顔は幼い子どものようで、セックスしていた時よりも彼女の裡がみえるような気がした。
しばらくぼんやりとその顔を眺めていたが、頭が冴えてくると、カバンからスケッチブックを取り出した。カッターで鉛筆の先を尖らせると、シャッシャッと小気味のよい音を立てて、鉛筆を紙の上で滑らせた。電気をつけなくても、窓から差し込んでくる街灯の明かりだけで十分に彼女の輪郭を見て取れた。
鉛筆の音で目が覚めたのか、彼女はゆっくりの瞼を開けた。
「なあに?私を描いてるの?」
彼女は寝転がったままの状態で、目線だけを投げかけた。
「嫌だった?」
僕はデッサンをする手を止めた。
別にいいけど、と彼女は言った。
「その代わり、完成した絵は私にちょうだいね」
それは一向に構わない。自分の絵など取っておいても何にもならない。ユーフォ―キャッチャーで景品を取るのが好きなのであって、景品には興味がないのに似ていた。
彼女は意外にも辛抱強く身体を静止させていたが、「とびっきり美人に描いてよね」とか「黒目がちに描いて」とか口うるさく要求した。眠っていた時の印象と大きく変わり、僕は戸惑った。しかし、そこに僕の意識など介入させるべきではない。ただ見えたように描くだけだ。

「これってあれみたいじゃない?タイタニックで、ディカプリオが絵を描いてるの」
煌びやかな部屋で、若き日のケイト・ウィンスレットが裸になって横たわっている姿が思い浮かんだ。果たして似ているだろうか。ここは豪華客船でもないし、海の上でもない。僕たちは愛し合ってもいないし、船が沈みそうになったときに互いを命を賭して助けられるとはとても思えない。似ているところと言えば、彼女とローズの気の強さだけだろう。

僕が答えないでいると、彼女も黙った。
二人の間に、沈黙が流れた。開け放った窓から、時折柔らかな風が吹き込んで微かに肌をなぞった。陽が昇りはじめたらしく、柔らかな光はその強さを増していった。光は片側から彼女を照らし、反対側に落ちる影を濃くしていた。ガタンゴトンと、遠くで電車が走りはじめた音がした。

「もう動いていいよ」
描き終わると、スケッチブックから紙を外して彼女に渡した。
「ふうん」
彼女は自分の裸体が描かれた紙を見つめたが、それ以上特に感想は言わなかった。気に入ったのか、気に入ってないのか判別できなかった。
「有難くもらっておくわ」
そういうと、彼女はさっさと服を着て部屋を出ていった。後には彼女がつけていた香水の匂いだけが微かに残った。

一体彼女は何だったんだろう。
僕はこのあと、彼女と出会うことはなかった。時々記憶の片隅から引っ張り出してきて、そんなこともあったな、と思うだけだ。夢だったのかと考えることもあるが、鉛筆で象った彼女のパーツの一つ一つは鮮明に脳裏に焼き付いていた。
人生を10回繰り返したら、9回は彼女と出会うこともなく一生を終えるだろう。それくらい、僕らの交わりは一瞬で、不確かなものだった。神様のいたずらとか、そんな大層なモノではない。出会っても出会わなくても殆ど違いはない。そんな出会いが偶然起きただけだった。しかし、その出会いは、確かに僕の一部となって回り続けていた。


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