見出し画像

母という存在について

今日は母の日。
これまで母という存在とはいったい何だろうとずっとみてきたけれど、今日はこれか、と意識がスッとなることがあった。
それは以前日本画の恩師がそっとつぶやいた言葉からの気づきだった。

「他の人の作品をみて、もっとこうした方がいいとか自分ならこう描くとかそんな気持ちが生まれた時は気をつけた方がいい。」

もう10年ほど前に伺ったのだが、このような内容だったと思う。
当時はそこまで深くこの言葉の意味が分かっていなかった。分からないながらも言葉通りに捉えて、そういった気持ちになった時にはとにかく制作を見直して自分に集中するようにと心がけていた。
今朝ふと浮かんだのがこの言葉で、さっと霧が晴れるかのように意味が分かった。
この言葉にあるような気持ちが生まれる心の状態というのは『本来の自分ではない状態』だということだ。
もし『本来の自分らしい状態』であれば、他の方の作品について批判的になったり何かひっかかったりすることはない。作品はそれぞれ作家が意図して生み出すものであり、他者がとやかくいうものではなくただ『在る』ものだといえるからだ。
『本来の自分ではない状態』とはどういった状態かというと、何かに捉われて他者の目を気にするような時に陥るようにみえる。
そのような状態でどんなに制作を進めても自分らしい輝きを持ったものがカタチになることはない。

これは作品制作に限らず、あらゆる物事にも当てはめられるだろう。
自分らしい輝きを放つものは誰がみてもやはり美しい。それが世界に大きな影響を持つものでも、どんなにささやかなモノやコトであっても、唯一の輝きを放つことに変わりはない。



drawing 2022.4.10


こんな風に恩師の言葉を心の中でみつめていたら、『母なる存在』という言葉が浮かんできた。
この恩師の言葉自体が『母』のように感じた。もちろん言葉を発した恩師もまた『母』である。
そう、恩師も母。
親や親戚、学校の先生、絵画の先生、セミナーの先生、師匠、先輩、後輩、友人も家族も、これまでに出会った人々も(もしかしたらまだ出会っていない人々も)
、木々や山、川、海、空にも、世界の全てに『母なるもの』が散りばめられている。その『母なるもの』にはきっと必要な時に出会うだろうし、後から振り返ることもしながら育っていくものなのだ。
『母なるもの』に育てられるのではなく、『母なるもの』を自ら見つけ出して気づきを得て成長する。そんな世界に包まれているという感覚を先月描いたドローイングにみた。
4月10日は母の命日、母から学ぶ日々はなお続く。

サポートいただいた場合には、古民家等での展示費用として活用させていただきます。