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良くない自分の性格

 ピアニストのフジコ・ヘミングさんが四月に亡くなった。

 新聞社で学芸部記者をしていたとき、フジコさんがチャリティーコンサートに出演するという記事を書くように上司に言われ、お家に伺ったことがある。取材のあと、猫がいっぱいいる家で、フジコさんは私のノートか何かにサインしてくれ、そのとなりにブチュッとキスマークを付けてくれた。

 無名だったフジコさんの波瀾万丈の人生がテレビで紹介されて話題になり、デビューCDが大ヒットしたころのことだった。取材が終わって会社に戻ったときだったか、記事が掲載されたあとだったか、忘れてしまったが、先輩記者が私に話しかけてきて、フジコさんをバカにした。フジコさんの演奏技術は未熟で、音楽業界では認められていないという話だった。

 若手記者だった私にわざわざ近づいてきて、フジコさんの悪口を延々と言う先輩記者のエネルギーに、屈折したものを感じて、私は戸惑った。国際的な賞を取ったわけでもない六十七歳の女性のブームを苦々しく見ていた先輩は、そんな彼女のことを記事にする必要はないのに、なぜしたのだと言いたかったのだろうが、私は上司の指示で取材に行っただけだったので、「私に言われても……」と思ったのを覚えている。

 主催者が券をくれたので、私はそのチャリティーコンサートに足を運んだ。確かにフジコさんの弾いた「ラ・カンパネラ」は、思いきり音が外れていた。私はクラシック音楽の技巧を聞き分けるような耳を持っていないが、自分が分かるぐらいだから、音楽業界が評価しないのも無理はないと理解した。ただ、会場はとても盛り上がっていた。

 それから私は一度もフジコさんの演奏を聴いていない。キスマーク入りのサインも、探せばあるかもしれないが、どこかに行ってしまった。あれから四半世紀。フジコさんの訃報を聞いて、あのときのフジコさんをバカにした先輩を思い出した。でも結局、私もその言い分を是として、フジコさんをバカにしたんだなと申し訳なく思った。

 同時に、私が小学生のころの美術の先生の顔も浮かんできた。細い眼をした天然パーマの男の先生で、生徒から「コバやん」と呼ばれていた。三十代ぐらいだっただろう。美術の先生っぽく、いつもジーンズをはいていた。

 そのコバやんがあるとき、小学六年生の私に言ったのだ。

 「君は人をバカにする良くないところがある」と。
 
 どんなシチュエーションでそういう話になったのか覚えていないが、コバやんは真面目な表情で、私にだけ言った。静かな口調だったが、一重まぶたの目は怒っていた。

 そのとき、私は彼を無視したのだったか、それとも生意気そうにニヤニヤと笑ったのだったか……。いずれにしても何も答えなかった。内心、私はしまったと思っていた。見透かされたと思ったのだ。

 小学六年生のときの私は、実は美術の先生というのは美大を出て芸術家になれなかった人がなるものだと思っていた。恐ろしいほど浅はかだったが、きっとそうした考えがコバやんに伝わったのだろう。実際に口に出すほど愚かではなかったはずなので(そう信じたい)、私は「何も言ってないのにコバやんはどうして私の思っていることが分かったのだろう?」と焦ったのだと思う。

 小学六年生で、なぜ私はそのような性格の悪い考え方をしていたのか。それは亡き母がそんな思考の持ち主だったからだと思っている。

 母には、無名人より有名人が、アマチュアよりプロが、サラリーマンより芸術家が、地方より東京が偉いという分かりやすい価値基準があった。例えば、私の父方の祖父は会社を定年後、博多の郷土史家として地元の出版社から何冊も本を出し、今の私からすれば、なんと立派なことかと思うが、当時、新刊が家に届いても、母は「地方の出版社から出してもネ……。東京の大きな出版社から出せばいいのに」と私に言ったものだった。

 一人っ子で百パーセント、母の影響下にいて、母の言うことはすべて正しいと感化されていたので、私もいつのまにか、自分は何者でもないのにも関わらず、上から目線で物を見る人間になってしまっていたのだと思う。コバやんに欠点を指摘され、まずいと思ったあとは、直すように努めた。成長するにつれて母の影響下からも抜け出した。しかし、肩書を重視する傾向がある新聞社に入ると、そのことに疑問を感じながらも、その方が仕事が効率的に進むので、そちらに流れていった気がする。新聞社の世界は悪い意味で性に合っていたのかもしれない。

 フジコさんが亡くなったあと、テレビで追悼ドキュメンタリーを放送していた。フジコさんは一九九九年、「ラ・カンパネラ」についてこう語っていた。

 「私が世界で一番うまいなんて思っているというんじゃなくて、私は自分の『カンパネラ』が一番気に入っていて、他の人の弾き方、嫌いなのよ。少しは間違っていてもかまやしない。機械じゃあるまいしさ」

 一方で、フジコさんはミスをしないように常に練習していたという。「ステージに上がる前には胸の前で十字を切り、本番で間違えたときはかわいそうになるくらい落ち込んでいた」という友人の写真家のコメントがあった。

 久しぶりに聴いた「ラ・カンパネラ」は柔らかく美しい音色だった。亡くなってから知ったことだが、フジコさんのカンパネラは、通常のピアニストが弾くよりもテンポが極端に遅かったそうだ。でも、そのせいか、穏やかな歌のようで胸に染みた。

 昨年、コンサートに行ったという知人は私に「フジコさんの音は癒されるんですよ。あの不思議な癒しはなかなか伝わりません」と話した。「キスマーク入りのサイン、ぜひ探してください」

 かつて「君は人をバカにする良くないところがある」と私を諭したコバやんは、今どうしているのだろう。先生が注意した私の良くないところは、半世紀を経て、少し直ったと思います、と言いたい。

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