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静大生錦絵深読 2020(2)四ッ谷

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画題:江戸の花 名勝会 く 五番組
絵師:【上段】都遊、【下段右】歌川豊国(3代目)、【下段左】歌川貞秀
都遊:未詳
歌川豊国:3代目(1786-1865年)。
「国会図書館デジタルコレクション『江戸の花名勝会(梓元序文)」に、「豊国翁が描き終わって亡くなった」という旨が記されていることから、3代目と推測しています。
翻刻は、以下の記事にて。


歌川貞秀:1804-1872年か。(「Wikipedia |歌川貞秀」より)
版元:加藤清
改印:亥十一改(文久3[1863]年11月) 

翻刻や絵の詳細は、以下4つの部分に分けてご紹介します。

➀タイトル周り(上段右)

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~翻刻~
➀軍書講談あらき  ③昔はなし おし原
②御料理 えび兼   ➃大盛二八太田屋

~解説~
➀「軍書講談 あらき」
「あらき」とは、四谷荒木町を指すと考えられます。
江戸時代は美濃高須藩主・松平義行の大名屋敷、明治の頃には芸者衆の行き交う粋な街として栄えました。※1
「軍書講談 あらき」とありますが、軍書講談を催す寄席の場が江戸時代に荒木町にあったかは不明です。「定年時代 | 平成21年2月号」(2021年2月23日閲覧)には、荒木町に寄席ができたのは、明治末~大正との記述があります。

ちなみに、この絵が描かれる以前に行われた天保の改革によって寄席は厳しい規制を受けました。改革後の寄席について、南(2002)※2は以下のように論じています。

老中水野忠邦の失脚後まもなく、老中牧野忠雅は寄席をすべての面にわたって、改革前の状態の復す案を町奉行に提出した。

一方の町奉行(跡部・鍋島)は寄席数制限の撤回のみに固執。「市中取り締まりの直接の責任者としたの立場に拘泥したため」か、寄席復活には消極的でした。
しかし、この後南(2002)は以下のように締めくくっています。

老中水野忠邦の失脚後とはいえ、わずか二年後に町奉行は寄席数を一五軒に制限したさきの町触を撤廃した。それは現実を無視し、強権を背景とした強引な政策の結果として、当然の帰結であったといえよう。

こうして、天保の改革後は復活の兆しが訪れた寄席。浮世絵の改印にある文久年間は水野の失脚から約20年が経ちますが、当時の寄席の状況については荒木町の寄席場の有無も含め、現在調査中です。

③「昔はなし おし原」
「昔話」とは、「講談」などと同様、話芸のジャンルです。
「おし原」とは、忍原を指すと考えられます。江戸時代、四谷伝馬町と四谷忍町の境辺りを「忍原」と呼んでいたとのことです。※3

④「太田屋」
 四谷御門外にあった「太田屋定五郎」が、江戸そば切り「馬方そば」発祥の店とされています。※4

「四谷の馬方蕎麦」とは「太田屋定五郎」の俗称です。
当時、四谷付近は近在から出てくる小荷駄馬でにぎわっていました。馬子たちが行き帰りに食べてたことで店の名が広まったと考えられます。
「挽きぐるみ」と呼ばれる黒っぽいそばでしたが、他のお店に比べて量が多かった(「大盛」)ので評判になったとのこと。※5

創業は寛永18(1641)年。嘉永元年(1848)版『酒飯手引草』の掲載を最後に幕末頃消え去ったと推測できます。
国立国会図書館デジタルコレクション『江戸名物酒販手引草』はコチラ>>

※②「御料理 えび兼」については、調査中です。アンケートにて、情報をお待ちしています。

②上段左

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~翻刻~
➀愚僧は此佛さまとはなまぐさい中故に今ばん四ツ谷
②むさし野のときこの所に四軒賎か家有て四ツ谷と云
③今は四つの谷ありて えしのゑといふ

※③については、都立図書館では「今八四ツの谷ありての名といふ」と翻刻されています。

~解説~
翻刻の内容から四谷の地名の由来が書かれていると考えられますが、ここに書かれている由来の裏付けとなる資料は現在調査中です。

なお、四谷の地名の由来は以下の『町方書上』にも記されています。
国会図書館デジタルコレクション 『町方書上』はコチラ>>

③下段右

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~翻刻~
於岩の亡霊 坂東彦三郎

~解説~
<役者について> 
この浮世絵で描かれている役者は、坂東彦三郎です。
生きた年代や上演年数から、5代目(1832-1877)と考えられます。
幕末から明治にかけて、時代物の立役で実力を発揮しました。※6
5代目坂東彦三郎は、文久1(1861)年7月に中村座で行われた「隠亡堀の場」でもお岩の役を演じています。
3代目歌川豊国の描いた当時の芝居絵が、国立劇場に所蔵されています。
「隠亡堀の場」芝居絵はコチラ>>

<『東海道四谷怪談』について> ※7
『東海道四谷怪談』は文政8(1825)年7月、江戸中村座で初演されました。
『東海道四谷怪談』という外題の読みについては、本来「東海道」は「とうかいどう」ではなく「あづまかいどう」だったという説もあります。
絵本番付(各場面の絵組のパンフレット)では「東海道」を「あづまかいどう」と読ませているとのこと。
そもそも四谷は四谷見付から内藤新宿に至る甲州街道に当たること、また歌舞伎ではよく「あづま」の読みが用いられていたことなどが根拠として挙げられます。

なお、初演でお岩を演じたのは尾上梅壽(3代目尾上菊五郎)です。
本記事でご紹介している浮世絵で描かれる5代目坂東彦三郎が演じた歌舞伎は、再演された歌舞伎と関わりがあるものと考えられます。

文久元年「東海道四谷怪談」絵本番付※8はコチラ>>

上のPDFの4頁右下にある戸板返しの場面に、「お岩 彦三郎」という文字があります。よって、この番付の時は既に彦三郎の時代です。

また、同PDFの6頁に「文久元年」とあり、これが再演された年です。
『歌舞伎年代記』※9にも、文久元年7月7日に中村座にて上演された旨が記載されています。

さらに、今回ご紹介している浮世絵は4枚綴りの作品で、当初4枚とも同じ時期の芝居に関する役者絵が描かれていると推測していました。
しかし、調査を進める中で、1枚目とこの2枚目に関わる芝居は年代が異なることが判明しました。

というのも、1枚目で描かれる役者は、前述の尾上梅壽です。4枚綴りのうち、この1枚目のみ初演時の役者を取り入れていることが分かりました。

➃下段左

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~翻刻~
四ツ谷於岩稲荷社
➀ニ上り王子さん 於岩さんへは   ➃神かけて
②わしや日参し           ⑤狐のやきもの お百度あげて
③をつなねがひを          ⑥おみくじに  
                  ⑦吉といふ字がちよいと出た
~解説~
<四ツ谷於岩稲荷社> 
「四ツ谷於岩稲荷社」は、現在の四谷於岩稲荷田宮神社(東京都新宿区)を指し、今もお岩が祀られています。
『東海道四谷怪談』に登場する「お岩」は、田宮家初代・又左衛門の娘で、実在したと考えられる人物です。

お岩の見た目や人柄に関する逸話は諸説あります。
怪談での姿のように生まれつき病気で醜悪な見た目だったという説もある一方、この稲荷神社ではお岩は「良い人」「良妻賢母」とされているとのこと。
今回参照した「神社と御朱印 |四ツ谷於岩稲荷田宮神社」(2021年)2月23日閲覧)には、以下のような記述がありました。

田宮家初代・又左衛門の娘・お岩はこの社を篤く信仰しており、田宮家の養子である夫・伊右衛門とは仲睦まじい夫婦であったという。
また薄給であった夫を支え、商家に奉公に出るなどして家勢を再興したといわれる。

『東海道四谷怪談』では亡霊となったお岩が伊右衛門を呪う場面もありますが、上記のように実際の夫婦関係は良好だったという説も存在しています。

お岩は1636(寛永13)年に逝去。その後、近隣の人々は田宮家復興が邸内社の御利益にあるとして、神社を「お岩稲荷」と呼び信仰したとされています。
評判の高まりを受け、田宮家内でも邸内社の傍らに小祠を造り、「お岩稲荷」と名付けて崇敬したとのこと。

また、邸内社であるにも関わらず参詣を望む者が後を絶たず、ついには一般町人にも参拝が許可されました。

そして、お岩の没後約200年の1825(文政8)年、四世鶴屋南北作の歌舞伎狂言「東海道四谷怪談」が江戸中村座で初上演。
歌舞伎の上演を機に、神社の人気はさらに高まったとのことです。

四ツ谷稲荷の由来は、以下の『於岩稲荷来由書上』にも記されています。
国立国会図書館デジタルコレクション『於岩稲荷来由書上』はコチラ>>

<『於岩稲荷来由書上』の信憑性>
『於岩稲荷来由書上』は歌舞伎上演の後に書かれたものです。
この書上について、※7の郡司氏は懐疑的な態度であることが以下※10からわかります。

郡司氏は、先行した巷説の存在を認め、書上を巷説として重要視する一方で、この記述について、「芝居の人気に付け入って書かれたところがある」、(中略)「実説として、まことに異様」等と、あまり信用していない書きぶりである。また「お岩」の名についても「かたましい女の系譜に名付けられたかぶきの独自な命名法」によって、歌舞伎の世界で付けられたものであるとしている。

こうした郡司氏の姿勢について、※10の筆者は以下のように推察しています。

解説の文脈から推察すると、郡司氏は、天明八年の黄表紙『模文画今怪談(怪談四更鐘)』にあるような、非常に簡単な話を元に、「芝居の人気に付け入って」、リアリティを強調するために数字や名前などを具体的にして書上が作られた、と考えたものらしい。

しかし※10によると、この書上について高く評価する考えもあるようです。

以前から、この話については、向井信夫氏・高田衛氏によって、芝居以前に、『模文画今怪談』以外にも文芸化された物があること、その元になっている『四谷雑談』という実録の写本が存在するらしいことが指摘もされ、(中略)実際に明治・大正期には活字本が刊行されているのである。しかも大正時代の活字本、「近世実録全書」の解説では、「大体において事実に近いもののようである」といい、書上についても「講釈師の頭脳からでた無稽な怪談とは異なって、多少首肯せしむる所があろう」と、かなり高い評価を与えてもいるのである。

国立国会図書館デジタルコレクション『四ツ谷雑談』はコチラ>>

~参考サイト・文献~
※1「ジオができる街」(2021年2月1日閲覧)
※2南和男『天保の改革と江戸の寄席』(2002年)駒沢史学59
※3【四谷 横町(横丁)】忍原横丁(2021年2月23日閲覧)
※4「四谷まち歩き手帖3下巻 甲州街道」(2021年2月1日閲覧)
※5「うまかたそば【馬方蕎麦】」(2021年2月1日閲覧)
※6「文化デジタルライブラリー | 歌舞伎辞典:坂東彦三郎家」(2021年2月23日閲覧)
※7郡司正勝(校注)『新潮日本古典集成 東海道四谷怪談』(1981年) 株式会社新潮社
※8「芝居番付画像データベース」(2021年3月22日閲覧)
※9田村成義(編)『歌舞伎年代記 続続編』凰出版 p.18~19
※10長谷川強(編)『近世文学俯瞰』(1997年)汲古書院 p.275~294 小二田誠二「怪談物実録の位相—『四谷雑談』再考」

花島瑞希・記

「はじめに」へもどる。

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