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久高島での時間(つれづれ)

旅から戻り、「簡素な生き方」を読んでいると、何度も久高島での時間とリンクすることがあった。いつか熟成すると思いながらも、空白となっている言葉にできないその時の気持ちを読んでいるようであった。

P56 花も木も動物も、安全な静けさの中に生きています。空から降ってくる雨にも、目覚める朝にも、海へと流れる小川の中にも信頼があります。存在するもののすべてのものは、こう言っているように思えます。 「私はここにいる。私はここにいなければならない。それには立派な理由がある。だから安心して落ち着いていよう。」 同じように人間も自信をもって生きています。存在するというまさにそのことによって、存在する十分な理由と確信の証を自分のなかにもっているのです。かつて人間が存在することを望んだ、神のその意志のなかに信頼が宿っているのです。             -簡素な生き方 シャルル・ヴァグネル(著) 山本知子(訳)


久高島へ行く前は、神々しい、格式高い島と聞いて、これから始まるたびの前を畏れ多い気持ちが少し前を先走ってしまい、どこか少し構えてしまっていた。立入禁止の場所や、遊泳禁止とは足を入れてもいいのかどうか、と変な不安もあった。


しかし、実際は意外にも“親しみの持てる”場所だった。

島内の聖域や名所、絶景の情報はネットにもガイドブックにもたくさんある。私の人生では、何事も「初めての瞬間は人生に一度きり」なので、まずは自分の直感と印象を大切にしたいという思いがいつも胸の中にある。ネタバレのようなものも見ようとは全く思わない。今回も先に情報を得てそのポイントを周るスタンプラリーのような周り方よりも、出くわしたら調べるようにし、文字や言葉、言い伝えに捕らわれないようにしようと思った。もう一度繰り返すが、「初めて」というのはその日しかないのだ。だったら、あるがままの景色を見て、直感を揺さぶり、いつも通りの時間を過ごしたかった。美しい景色の中で。

そうして、それらの名所と言われる言い伝えの多い場所や、自分の目で見て、間の道を自分の足で歩いた結果、

出くわす場所の一つひとつは、とても親しみのもてるような場所で、それらを総合して1つの島として思い出した時に、、、一気に神々しい聖域のような気持ちで満たされた。

そこに必要不可欠だったもの

そこに必要不可欠だったのは、「ケ」の日を過ごす人々と動物ではないか。もしここに誰も住んでいないならば、感じるものは少なかったのではと、今振り返ると思う。そこに生きるモノの「気配」。入港と出港前に出会った猫。海の近くにいた猫。猫生。ススキ道を歩くたびに、艶のある黒に薄紫や水色の混じった羽根を広げた蝶がフワッと舞い上がる。そしてしばらく私の少し前をフワフワと飛ぶ姿がまるで、道案内をしてくれるように思う瞬間が多々あった。蝶生。太陽の光をさんさんと浴びて濃い陰影を作り出す、亜熱帯系の木々、植物。木生。

「今でも」年中祈りの行事に使われるからこその「聖域」と呼ばれる場所が多々あること。町の人がいる場所、いない場所として南北でハッキリしていること。それらがより一層、生活者とそのご先祖様、自然への敬意という神聖さを感じた。あのハビャーンとよばれる場所で釣りをしていたおじいさんもとてもカッコよかった。いつもどおりの日常の時間なのだろう。こうして観光客に囲まれることも含めて。人生。

私にとっても、初めての場所に身を置きながらも、静かに「ケ」の日の一部のようにぼーっとすることが大事だったと思う。

そして、その人たち、蝶、猫、木々に呼吸を合わせるように努めると、この島で生きるという、一瞬だけどそんな仮の経験をさせていただいている気がした。観光する、という「ハレ」とは反対と言っても過言ではない。

その場所で生きる生き物がいるから、自然のエネルギーが伝わってくるのではないか。そのパワーの中で、実際に目覚め、眠りに落ちて「生きている」生き物たちだから。でも特別なんかじゃない。(鳥や蝶は羽があるが、あの猫たちは、ずっと島で生きるのだろうか。)

帰りのバスの中で、あの曇ってきた瞬間に身震いしたことを思い出しながら、感じたこと。

雨の日も、くもりの日も、 朝も、夜も、見てみたい。

時間や天候によって、目の前の景色が恐れるくらい変わる気がする。色や影、コントラスト、風や匂い、音。それらを共にしながら、次は半日の生活ではなく、丸一日中ずっと久高島での時間に身を置きたいと思った。

島の物は全て「借り物」である、という考えもわりと心射抜かれている。それって本来はこの地球上、どこでも言えることなんだろうな。


「目に見えない」ものを言葉にするということは非常に難しい。そしてときには危険すら思っている。

すべては、今回の私に限って感じたことだ。最初に決めたように、久高島はこうだ、と断言はしたくない。

また違う人がいけば、その人の時間がある。私もまた違う日に行けば、違う感じ方が必ずある。


だけど、行ってよかった。

行かせていただきありがとうございました。

書いてはみたものの、この上手く言えない気持ちは、「心を残す」という意で、

また大切に心の中にしまっておこう。




静水庭🌿


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