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侮れない煩悩

今日は、マインドフルネス、とか、瞑想、ということをテーマにしています。

ミャンマーのお坊様で、ウ・デジャニヤ長老という方がいらっしゃいます。
私は、間接的にではありますが、この方の言葉をほぼ毎日Twitterで見て、日々の生活で気づくこと、を実践しております。
先日、ご紹介した、コー・ヒロさんの呟き。

この言葉は、主にはウ・デジャニヤ長老のところで瞑想修行されている方へ向けた言葉なのです。そのような言葉を拝見させていただいております😊🙏貴重です😊🙇‍♀️🙏

そのデジャニヤ長老の著書、というのでしょうか?施本というのでしょうか、「侮れない煩悩」や「ダンマはどこにでも」の中の言葉を、時々ですけどnoteに書いていこうかな〜って思ってます。

今日は、初めての紹介なので、詳しく書きましたけど、今後は、引用と、所感くらいで、短めに投稿していこうかな、と思っています😊🙇‍♀️🙏
今日は、タイトル通り「侮れない煩悩」から。

瞑想における正しい態度(yoniso manasikāra)

リラックスした状態で気づいていることは不可欠ですが、正しい態度、あるいは正しい心構えを持つことも大切です。正しい態度を持つとは、どういうことでしょうか?私たちは正しい態度を持つことで、どんな経験をしても、満足や、快適さや、安らぎを感じることができます。間違った考えや知識、そして煩悩に対する理解がないと、瞑想に向かう態度に悪影響を及ぼします。
誤った態度は誰にでもあり、どうしてもそれが出てくるときがあります。ですから正しい態度でいようとはせず、誤った態度であれ、正しい態度であれ、そのどちらが自分の中にあるのかを認めるようにしてください。正しい態度に気づくことは大切ですが、誤った態度が出たときに、それを認識し掘り下げていくことは更に重要です。自分の誤った態度を理解し、それが瞑想にどのような影響を与えるか、またそれが自分をどのように幻惑させているかを理解してください。そのためにも、どのような心の状態で瞑想しているのか、よく自分を顧みて、心をチェックし続けましょう。

正しい態度でいると、リラックスしながらも注意深く、起こることはすべて、心地良いものでも悪いものでも受容し、認め、観察することができます。良い経験、悪い経験のどちらも受け入れなければなりません。良いことも悪いことも、経験するすべてが学びの機会なのです。そうすることで、心が対象をありのままを受け入れているかどうか、好きか嫌いか、反応したか、あるいは判断したかに気づくことができるのです。
好きとは欲望があるということで、嫌いとは嫌悪感(怒り)があるということです。欲 望と嫌悪感は無知(無明)により生じる煩悩です。無知もしくは妄想もまた煩悩です。瞑想で何かを作り出そうとすることは、欲です。起きていることを拒むことは、嫌悪です。 起きていることに気づかなかったり、それが止まったときに気づかなかったりすることは、無知です。
自分の思いのままに物事を作り出そうとしているのではありません。起こることをありのままに知ろうとしているのです。対象に「こうあるべき」「こうなってほしい/ほしくない」と考えることは期待です。期待は心配や不安を生み、更に怒り・嫌悪をもたらします。 だから、瞑想に向かう自分自身の態度に気づいていることが大切なのです。

瞑想について判断し、進み具合に不満を抱くのも誤った態度です。この不満は、「自分が思い描いていたものと違う」という考えや、「違ったらいいのに」という欲望、または正しい実践に対する無理解(無知)から生じます。このような態度は、心を閉ざし、実践の弊害となってしまいます。不満があることを認め、完全に受け入れ、徹底的に観察しましょう。この不満のプロセスを観察し探る過程で、その原因がはっきりするかもしれません。 原因を理解することで、不満は解消されていきます。そして再び不満が生じたときに、それを認識する手助けとなるでしょう。不満が心と体に与える害がよりはっきりとわかるで しょう。対象を自分勝手に価値判断する態度に一層注意するようになり、次第にその態度はなくなっていくでしょう。このようにして、煩悩を扱うスキルを身につけていくのです。
誤った態度の原因は、妄想です。それは誰の心の中にあるものです。誤った態度とはすべて、渇望や怒り・嫌悪感などの煩悩、またはそれらに関係する煩悩(高揚感、悲しみや心配など)のことなのです。煩悩を受け入れず野放しにしておくことは、煩悩を強めてし まうことになります。煩悩は、瞑想の上達を妨げ、人生を全うすることを阻みます。また、 真の平和と自由を見つけ出すことも阻害してしまいます。煩悩を侮らないでください。さもなければ、あなたは煩悩に嘲笑われることになるでしょう。

 煩悩には用心してください。心に現れる煩悩をよく知るようにしてください。観察し、理解しようとしてください。煩悩に囚われたり、煩悩を拒んだり、無視したり、あるいはそれと自分自身を同一視しないようにしてください。煩悩に囚われなくなり、煩悩を少し離れた所から観察できるようになったとき、その勢いは徐々に力を失うでしょう。どんな態度で瞑想しているかを何度でもチェックし続けましょう。
気づきの瞑想は、「心と体の関係を理解する学びの方法」であることを、常に心に留めて おいてください。自然体で、シンプルでいいのです。不自然にゆっくりと動作を行う必要はありません。ただありのままを観れば良いのです。
「集中しよう」と頑張る必要はありません。集中力(「定」)は実践により自然に育ちます。私たちの目的は、より気づけるようになることです。気づきが継続的なほど、心はより鋭く、そして受容的になります。
忘れないでほしいのは、観る対象はさほど重要ではないということです。気づいているために背後で働いている「観察の心」こそが真に重要なのです。この観察が正しい態度で行われれば、どんな対象でも正しい対象となります。あなたは今、正しい態度でいますか?

もうね、ここで改めてびっくりしたことは、この瞑想における正しい態度、これが、ヨーニソーマナシカーラじゃんか!😳
ってことなんですよ。やっぱり、書いてる私が一番勉強になっています🙏
私がいかに、いい加減に本を読んでいるかがわかりますね!🤭😂
人は読みたいことを読みたいように読むのです。
注意深くありたいですね😊🙏❣️

自分の思いのままに物事を作り出そうとしているのではありません。起こることをありのままに知ろうとしているのです。対象に「こうあるべき」「こうなってほしい/ほしくない」と考えることは期待です。期待は心配や不安を生み、更に怒り・嫌悪をもたらします。 だから、瞑想に向かう自分自身の態度に気づいていることが大切なのです。

起こることをありのままに知ろうとする心の態度、のことを、如理作意、ヨーニソーマナシカーラというのですね。
私のお気に入りのパユットー師の「仏法」にも、この如理作意の意味がこう書かれてあります。

(Ⅱ)如理作意( Yoniso- manasikara= Analyitical reflection, Critical reflection,
Systematic reflection)
 理にかなった考え方をする。根本を思慮、考察する、ずっと思考を続けて究明する、秩序だった考え方をする、策をもって思考思慮することを知る、自分の渇愛、取で感覚を入れないでそのものの実相を分析し見る。

ここでは、理にかなった考え方とあります。秩序だった考え方、という思考、も入っていますが、そのものの実相を分析し見る、となっていますね。

そこにある真実を見ようとすること、なんでしょうね、きっと。

私たちは普段生きていると、この日常生活において生じてくる感情や思考を元に、生きておりますから、あまり、そこにある真実は何か、なんて思いながら生きていないんでしょうと思うのです。
好きだったら気持ちいいし、嫌いだったら心地悪いし、感情に、感受に、妄想に、右往左往しながら一喜一憂しながら生きておるわけです。
それが現実と勘違いしながら、ですね。

でも、よくみてごらんなさい、と仏教は教えてくださるんですね。

そこにある真実はなんですか?と。

この、如理作意があると、楽々と生きていける感覚が芽生える、そんな風に感じてしまうこともあります。

そしてここですね😊🙏

煩悩には用心してください。心に現れる煩悩をよく知るようにしてください。観察し、理解しようとしてください。煩悩に囚われたり、煩悩を拒んだり、無視したり、あるいはそれと自分自身を同一視しないようにしてください。煩悩に囚われなくなり、煩悩を少し離れた所から観察できるようになったとき、その勢いは徐々に力を失うでしょう。どんな態度で瞑想しているかを何度でもチェックし続けましょう。

煩悩とは、よく108つ、とか言われますけど、私は簡単に貪瞋痴、欲、怒り、無知、の3つで覚えています。ちなみに、「侮れない煩悩」では、このような説明がされていますね。

煩悩とは

煩悩とは、貪(欲)・瞋(怒)・痴(無知、無痴)の顕著な現れだけでなく、それに類似 した心の要素や、さらには非常にかけ離れたものまで含みます。次のような考えを 1 つで も思い浮かべたことがあるか、思い出してみましょう。
「こんな時間に電気がついているのはおかしい!」「アイツの態度、本当にムカつく。」 「あんなことして・・・。」「こんなの、私の方がずっと早くできるのに。」「瞑想なんて無 理だ。1 分もまともにお腹の膨らみ縮みを観てられない。」「昨日は瞑想がよくできたのに、 今日は気が散りすぎる。」「ああ、今の座る瞑想、最高だった。よし!この感覚を忘れないように気づきの心をしっかりもつぞ。」「瞑想ホールにいないと、みんなから怠け者と思われちゃう。」「体に良いから、今日はジャガイモをもう少しもらおう。」「うわ!サラダに玉 ねぎが入ってる。」「またバナナがない~。」「あの人、なんて自己中心的で思いやりがないの。」「なんで自分がこんな目に遭うんだ?」「トイレ掃除は一体誰がやるんだ?」「何でこの人はここを歩いているんだろう?」「こんな騒音、立てないでくれ!」「人が多すぎて、ここじゃ瞑想ができない。」「誰かが私のところに座ってる!」「あの子、すごく可愛い!」 「彼の歩き方、素敵!」
・・・このような考えは、すべて背後に煩悩があります。軽く見過ごさないように。
誰かのしたことが明らかに「嫌」なのに、「怒ってないよ」と伝えたことはないですか? 上司や家族、或は仲の良い友人のことをさえ、悪く言ったりすることはないですか?下品な冗談を時々口にしてはいませんか?人をおだてて何かをしてもらうことが習慣になってはいませんか?自分の意見に同意してもらえないと、つい声を荒げてしまうことはないですか?
・・・このような話し方もすべて煩悩によるものです。よく観察してみてください。ドアを激しくノックしてみたり、嫌な人がいるというだけで部屋に入らなかったり、列に並ばず横入りをしたり、シャワー室に誰かが置いていったシャンプーを使ったり、会社の電話で私用電話をかけたりするなど、これらに類する行為をついうっかりしてしまって いないでしょうか?
・・・このような行為もすべて煩悩がきっかけとなっています。気づけるようになりましょう。

この貪瞋痴3つが現れたとき、またそれに伴った感情や思考が生じたときに、気づくこと、なんですね。

たぶん、好き、嫌い、どちらでもない、と、いつも何か外のものと接触したときに、判断しているんです。
noteでも、スキ、とかのボタンがありますよね、好きってことですし、受け入れていることですね、きっと。反対に、嫌だと思えば、スキはしないでしょうし、認められない、ということだったり、もしくは、まあ、別に好きでも嫌いでもないなあ、普通、ふうーん、て事かもしれませんね😂
そのように、私たちは、生きていると、何かを感じたり、その時に何かしらの判断、のようなものをしている、ということだと思います。
その判断、フィルターのようなものかもしれませんが、それが私たちが真実をありのままに見れないようにしている、のでしょうと思うのです。
いい悪い、好き嫌い、正しい正しくない、といったものでしょうか。
瞑想は、そのような心を観察するんですね〜

今度、スキを押すか押さないか、判断するときに、ちょっと気づいてみると、自分のフィルターが見えるかもしれませんね🤭😂

この侮れない煩悩、というタイトル通り、煩悩は放置すれば放置するほどに、膨らみ、力を持ち、あなたの幸福を奪っていってしまいます。

煩悩は、瞑想の上達を妨げ、人生を全うすることを阻みます。また、 真の平和と自由を見つけ出すことも阻害してしまいます。煩悩を侮らないでください。さもなければ、あなたは煩悩に嘲笑われることになるでしょう。

「侮れない煩悩」を読んでみたい方は、こちらです。マインドフルネス瞑想をされている方には、特にお勧めと思います😊🙏


生きとし生けるものが幸せでありますように

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