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【質問箱】皐月彩と円谷プロダクションの関係について

こんにちは。皐月です。
今日はレッドブルつばささんのトークライブに意気揚々と出かけたにもかかわらず、財布を自宅に忘れて戦々恐々。電子決済ができると分かりホッとしています。いや、実際今日のイベントは電子決済無理ですと言われたらどうしよう……ううう……。

こんな感じで毎日ポンコツなやらかしをしている私ですが、仕事でポカミスをせずに済んでいるのは周りの人たちが私をよく管理してくださっているからな気がします。


あと、仕事ができないと思われたくない……という欲求が、普段の自分の生活をきちんとしたいという想いより強いのもあるかも。

さて、このnoteは、質問箱にいただいたお題をもとに書かせていただいています。

残り9件の質問のみを残す中、質問を全部答えたら何について書こうか考えている状態です。読書ノートをここでやっても、たぶん筆記して手元に残すより見返すことが無くなりそうで嫌だしなあ。

ということで、それが思いつくまではどなたかにこのnoteを手伝ってほしいなあと漠然と考えています。

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今回いただいた質問は

「円谷にどうやって入ったんですか?

あと、どうしてやめてしまったんですか?」


とのことでした。

新卒から1年弱円谷プロダクションにて『ウルトラマンジード』の制作に関わってから、『ウルトラマンR/B』『ウルトラマンタイガ』にて脚本を書かせていただき、以降はライターとして『TSUBURAYA GALAXY』『TSUBURAYA IMAGINATION』にて連載を持たせていただいております。

(もしよろしければツブイマで上記を見てくださったらハッピーです(アサヒ))

Twitterのフォロワーさんの多くは、おそらく上記の仕事の関係で特撮好きな方が多く、まったく特撮とは関係ないお仕事でも、その方たちに支えていただいていることを日々実感しております。いつも宣伝などにご協力いただき、ありがとうございます。

もしかすると、今回の質問を下さった方は、将来的に特撮に関わりたいと思っている方なのかもしれません。
特撮現場に新人の希望者がなかなか来ない&入っても定着しないという現状の中、こうして興味を持ってくださる方がいることはとても喜ばしく、ありがたいなと思います。

ただ、嬉しいからこそここで前置きをしておくと、「皐月が円谷に入ったのはかなり特殊なルートである」ということと、「皐月自身も円谷からは一年弱で離れている」ことをふまえてお話を聞いてほしいなと思います。

映像制作の仕事自体、どういうきっかけで関わりたいと思ったか、どういう経緯で関わることになるかは多種多様です。おそらく、多くの企業さんのような新卒一括採用とは毛色が違うからこそ、私だけの意見をもとに現場に行こうとしても、現実問題参入できるという保証はありません。

自分にとって最も適したアプローチの仕方は、きっとご自身でしっかりと、様々なリサーチをしたうえで検討した方が、参入後もご活躍いただけるのではないかと思います。

本題に入りましょう!
まず、私がどうやって円谷プロダクションに入ったのか、ということですが、まず大前提として、私は円谷プロダクションの社員だったわけではなく、外部のスタッフとしてIP企画製作部に籍を置いていただけです。
※IP企画製作部とは、TV『ウルトラシリーズ』の制作を担当する部署です

肩書としては『業務委託』の仕上げ進行。TVシリーズのプロデューサーの多くが、一年目以降、ここで現場について学び、ゆくゆくはAP(アシスタントプロデューサー)、そしてプロデューサーへと目指す第一関門になります。

私がこのポジションにお誘いいただいたのは、私の母校である日本大学芸術学部映画学科の教授に「円谷プロダクションが、TVシリーズに関わってくれるスタッフを探している」と言われたからでした。
映像制作現場はとてもハードであり、これまで紹介した学生たちの多くも挫折していった現場のため、大学にて講師をされている小林雄次さんからも「あまり勧められない」と言われるような厳しさだそうです。(他人事みたいに言っているのは、実際所属してみてあまり「辛い~」とは感じなかったからです)

当時の私はすでに人材業界の企業に内定をいただいて、週に五回、会社の中で営業担当として就活生向けのパンフレットを制作したり、ホームページのライティングをしていたので、まさに寝耳に水なお誘いでした。

それが、大学4年生の2月の時の話。人材業界に片足を突っ込んでいたからこそ言うのですが、この時期に学生に内定を蹴られるということは企業にとって大ダメージですし、自分の母校の信用を貶めることに繋がります。

もともと面接の時点で「私は脚本家だけで飯を食っていきたい。そして、その脚本家になるための道筋が開けたら、きっと会社を辞めると思う」という旨は伝えていました。私自身、30歳くらいその活路が開けるだろうという試算をした上で、当時所属していた企業は了承してくれていた、という状況です。

なので、誘いがあったその日に、社長に直接報告をしに行きました。
すると、「自分の人生、自分の夢を叶えるために行動をする人間であるということは分かったうえで採用をしている」と、社長は言ってくれました。もともと自分のやりたいことにガムシャラに立ち向かうからこそ、自分の会社の目標も適えてくれると思っていたと。

正直、ここで抜けられるのは辛い、ということももちろんおっしゃっていました。あまり内定者を確保している会社ではなかったことも含め、戦力ダウンは免れません。
しかし、「夢を叶える瞬間が早まったと思いなさい」と、社長は私の背中を押してくれました。

社長だけではなく、社員の皆さんも、取引先の皆さんも「寂しいけれど、ずっと夢を語っていたもんね」と、快く送り出してくれたあの日々を今でもたまに思い出しては、脚本という仕事に真摯に向き合わなくてはと帯を締めています。

そうして、私は『ウルトラマンジード』の撮影に参加することになりました。

正直当時は、ウルトラマンが現在テレビで放送されているのも知らない状態です。東映のスーパー戦隊シリーズを大学時代に友人に教えてもらい、夢中になって追いかけていましたが、ウルトラマンのことは意識したこともありませんでした。

なので、ジードに参加されているスタッフの方を見ても、「この人は○○でスタッフをしていた人なんだよ」と言われても、まったくいいリアクションもできない状態です。
その点も、質問を下さった方の状況とは少し違うのかなと思います。

私が求められていることは「とにかくジードの制作を円滑に進めるために働くこと」だったので、特撮の詳しさを求められていたわけではなかったんだと思います。
怪獣の名前が打ち合わせで出るたびに分からず、一生懸命調べないといけないのも骨だし、持ってきた資料が実は違う宇宙人(そのシリーズに出てる怪獣ではないと言われる)であるというミスも沢山しました。

その度、色々教えてくれた仲間たちにも感謝しています。

それと同時に、同じく円谷プロダクションを希望していたウルトラファンの方が採用されなかったことも知っていました。「特撮が好きだと言う熱量」だけでは、おそらく円谷プロダクションは採用を行っていないのではないかな、と、勝手に推理しています。
※実際、社員として現在働いている方々でも、仕事をしながらウルトラマンについて勉強されている方は多いです。

さて、感謝してる感謝してると言っている割に、一年弱でどうしてそんないい現場を辞めるんだ、というご指摘もあると思います。
質問の後半である「どうして円谷プロダクションを辞めてしまったのか」についてお話していきます。

これにはいくつか理由があります

・金銭面の問題
・時間がなさすぎる
・脚本家としての仕事の増加

円谷プロダクションで関わった人たちは、皆さんとっても素敵な人たちでした。
基本的に仕事をする際の基準が「自分と相性のいい人たちが働いていること」のため、職場としてはとても相性が良かったなと思っています。

ですが、上記3点は、仕事ではなく「人生」の上で譲れない問題だったから離れた。下に少しだけ詳しく、ご説明させていただきます。

・金銭面の問題

円谷プロダクションだけではなく、映像制作現場の予算はそれほど多くありません。
映像のクオリティを上げる=製作費が上がる、製作費が上がれば、スタッフの手元に残るお金は減っていきます。

しかも、仕事もまだまだ未熟な新人に払えるお金は、もっともっと少なくなります。
当時の私は一人暮らしをし、業務委託のため社会保険にも入れない状態で、手取りがものすごく少ない状況で、本にも映画にもお金がさけず、食費さえも足りなくて、近所の人に恵んでもらったり、スタッフの先輩方におごってもらったりして、ようやく借金をせずに暮らせる状況にありました。
自宅から会社までの交通費もいただけるわけではないので、とにかく仕事をしながらもお金がどんどん無くなっていきます。

来年になれば2万円給料が上がる、と言われたのですが、2万円で生活が向上するようには思えませんでした。
いつか子どもが欲しいとも思っていたので「このままがむしゃらに働いていても、子どもに満足な生活がさせられないのでは」と漠然と不安になっていました。

・時間がなさすぎる

私が担当していた仕上げ進行というお仕事は、ポストプロダクション(以下ポスプロ)という、撮影後の映像データをオフライン編集・合成・アフレコ・本編集・MA・テレ東への納品までの過程を管理するお仕事でした。

撮影中は朝から他の話の作業、撮影が終わったと聞けば撮影所に行って、円谷に戻って現像できるデータに変換してもらったらイマジカへ、そうすると終電がなくなっていて漫画喫茶で寝泊まりする……。
その宿泊費も、もちろん会社から出るわけではありません。翌日の編集作業のために何時に起きなきゃいけないかな……とハラハラしながら、リクライニングシートで体をバキバキにする毎日。

撮影に余裕があるわけでもないので、基本的に入る前から「月に一回くらい休みがあればいい方だ」と言われてはいました。なんとかやれるだろうと思いつつも、11月ごろに一度体を壊して病院送りになってしまい、現場に多大な迷惑をかけたこともあります。

体調面だけではなく、「脚本家として活動したい」という夢にも、この時間の無さは大きく支障をきたすことになります。簡単に言えば「勉強する時間が取れない」ことです。

創作を仕事にするうえで、取材・勉強・思案の時間が、私は実際の執筆期間よりも大事だと思っています。
しかも勉強をした中で、実際使用できるエッセンスは1割程度となると、作家というものは常に何かしらインプットの時間を設けなくてはやっていけません。インプットしたって、その仕事にありつけるかどうかも分からない仕事です。

だからこそ、本来勉強に割きたい時間が一切取れなくなってしまう。それでは、ただでさえ「脚本家になる」と言って内定を蹴ってきた過去の私に申し訳が立たないと思っていました。

・脚本家としての仕事の増加

円谷プロダクションで働きながらも、仕事の合間を縫って映画製作のお仕事や、ドラマ制作のサポートの仕事もしていました。(それに休みを全部投入していたから倒れてしまったのですが)

ですが、月に一度しか休みがないとなると、おのずと打ち合わせもできなくなり「この人に頼んでもいつレスポンスが来るか分からないな」と信用を失ってしまうリスクがあると考えました。

ウルトラシリーズに仕上げ進行として関わることと、脚本家として別現場に関わること、どちらが私の人生によりいい結果をもたらすか、と考えた時に、私は後者を選択したことになります。

以上が私が円谷プロダクションから離れた理由になります。

自分勝手な理由で離れてしまった私ですが、円谷プロダクションは退職以降も脚本の仕事やライター業務などでお声掛けくださっています。
円谷の仕事が無かったら食費が払えない時期もありました。そういう意味では、「特撮現場だから」という理由ではなく「そこにいる人たちに支えられている、感謝している」という気持ちの方が大きく、現在もお仕事を継続させていただいている状態です。

私はどんな時でも「脚本家になりたい」という気持ちですべての仕事と向き合おうとしていたこと、そのために多くの迷惑と犠牲を払ってきたことを踏まえて、あまり参考にならないのではと思うのですが……。

とりあえず、聞けて良かったと質問を下さった方に思ってもらえたら幸いです。

今日はここまで。
お笑いライブに行ってきます!!!

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