使命が見つからない人が見落としていること
自分の使命、生まれてきた目的ってなんだろう?
そんなふうに問いかけ、答えを探している人は多いように感じる。
けれど、私もそうだったが、なかなか見つからない。
なんとなくそうかなと感じるものはあっても、確信が持てない。
確信がないから、踏み出せない。
そんなふうにして何年も無駄にした。
どうしてそうなるのか。
一つは自分目線だから。
自分だけの使命、自分でなくてはならないこと。
ライトワーカーとか、なんとかチルドレンとか。
その裏には、特別性を求めるエゴが潜んでいる。
要するに、自分にばかり意識を向ける自己中だから見つからないのだ。
答えは、世のため人のために何ができるかという相手目線の領域にあったりする。
一方、世のため人のために身を粉にするタイプの人がいる。
世界の平和とか、すべての人類の幸せとか。
けれど、その人類の中に自分は含まれない。
使命とは果たすべきものであり、どんな困難にも打ち勝たねばならない、みたいな。
たしかに使命を生きることは時に大変ではあるが、苦しいばかりであるはずがない。
自分という存在が活かされる、命が喜ぶこと、そして、世の中や社会の役に立ち、人に喜ばれること。
二つが合わさる場所が、その人の使命だ。
誰もが派手で人目を引く、目立つ使命を担うわけではない。
かつての日本人は、「深山の桜」や「捨て石」になることをよしとし、喜んで身を捧げた。
捨て石とは、今はよくない意味で使われるが、本来は、そこで自分がなすべきことをなすことがのちの誰かの大業の礎となるという意味だ。
そこには連綿と続く命のバトンへの信頼がベースにある。
と同時に、人々は日々の今今にフォーカスし、全力を注いで、今日という日を幸せに生きたのだ。
自分目線の人は自分に自信がなく、使命を生きるという価値を付与することで自分を救おうとしている。
自己犠牲的に使命に自分を捧げる人も同じであり、どちらも前提が間違っている。
人がそこに存在を許されているという事実こそ、その人に無限の価値があることを雄弁に物語っている。宇宙には必要なことしか起きず、一人一人の存在も決して欠くことができないからだ。
自己中になりがちな人は崇高なお役目でなくとも、身近な人のことを心から思い遣りその一人に喜んでもらうことから始めてはどうだろう。
自己犠牲しがちな人は、自分が心から喜びを感じることでまず自分を満たし、幸せで満たされた気持ちのお裾分けで人に尽くしてはどうか。
そうやって生きていれば、どんどん人生が進展して必要な人との出会いが生まれ、その人ならではのドンピシャの使命に近づいていくのだと思う。
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