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利他は自他

利他とは、仏教用語で、自己の善行の功徳によって他者を救済することであり、自利とは、仏道修行によって自分によい果報をもたらすこと。自分の成仏を目的とすることと辞書に書いてある。人は執着を手放すほどに楽になり、煩悩を解脱し悟りを開いて、死んだら、この世に執着を残さず仏と成す。

人間にとっての幸福とは、幸福を感じる知性があることだと帝王学を学ぶ講座で教わった。人間は言葉を習得し、分けて理解しようとする生き物だ。「幸福とは」と考えると、「不幸とは」という問いが生まれる。一つひとつの物事に名前をつけて、相対的に理解する。光があれば闇があり、平和があれば戦争があり、女がいて男がいて、利他があれば自利がある。

自然界にある根源的なエレメント(火、水、木、金、土)を人間に当て込めて、我々も自然の一部である体を成す自然体な私がどの属性に値するのか知りたくなる。自然体な自分は自然界と融合する。

不自然と自然を選べる人間界はどんどん二極化している。お金や数字に囚われ、いやに効率よく合理性に数を増やすか追い求める欲望が暴走する資本主義がより高度に発達する不自然な方に傾いた分だけ、自然回帰を求める人々との二極化した世界の差が広がっていく。経済やGDPの成長を追い求めるのではなく、人間にとっての幸福とは何か。という本質的な問いから問い直し、人間一人ひとりの生き方から、社会のあり方、国のあり方を再構築する時代に差し迫っているように思う。経済という言葉は、「経世済民」を略したもので、世を経(おさ)め、民の苦しみを済(すく)うこと。また経済学の語源「economy」という英語の語源はギリシャ語「オイコノミア」。 この言葉は「家」を意味するオイコス“oikos“と、「法律・法則」を意味するノモス“nomos“を合成したものである。つまり、家のあり方が経済であり、その家の民がどう生きるかがエコノミーの根源なのだ。

国という大きすぎる社会構造は、まるでタイタニックのようだと思う。ほとんどの人は実在しない世界一の豪華客船は絶対に沈まないと未だに思い込んでいる。何億人という民を救い、世を経めるのは無理があるのではないか。本来、人間は百人ほどのコミュニティを形成し、狩猟採取して各々で生きていたのが、農耕するようになり、所有という奪い合いの元となる概念が生まれ、永遠に朽ちず無限に溜めこめて何とでも交換できる魔法のようなお金が神のように大事にされ、お金をいかに増やして溜め込むかマネーゲームが生きることに成り下がってしまった。

お金のむこうに人がいる。自然があることを忘れてはいけない。お金を貪り尽くした果てに何が残るのか。大量生産、大量消費して資源を使い果たせば、最後に首が絞まるのは誰だろうか。

利他は自他。自己の善行によって他者を救うことは同時に自利となって、自分にも他者にもよい果報をもたらす。利他は自分のためにも、相手のためにもなる。

お金のむこうに人がいる。
一人ひとりがそう意識するだけで「僕たち」の範囲が広がる。経済の目的が、お金や仕事を増やすことから、幸せを増やすことに変わっていく。
一人の意識が変わっても、すぐに社会は変わらないだろう。政治もお金の使われ方も何も変わらない。しかし、だ。
「一人ひとりの力は微力だが、無力ではない」という言葉がある。微力ながら、僕はこの本を書いてみた。それが、『僕たちの輪』はどうすれば広がるのかに対する、僕の答えだからだ。
社会が良くなるためには、一人ひとりの微力を積み重ねるしかない、と僕は思っている。
あなたは、どう思うだろうか?

お金のむこうに人がいる 田内学

利他は自他のために。
この世界はすべて繋がりあっている。
皆で贈りあって、満たし合おう。

ギフトに生きる実験はつづく

全身全霊で贈り人します‼︎