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映画音レビュー『聲の形』

 2回目を鑑賞し終えて、やっぱりひとしきりボロ泣きしたあとでこの文章を書いている。

 ホームシアターオーディオを組んで本当に良かったと思える、現時点での最高傑作に出会えた。
 アニメーション映画『聲の形』だ。

 観るのも語るのもつらい。
 暇つぶしにサラッと観られるような映画では決してない。

 ガキ大将の小学生石田将也が、先天性の聴覚障害をもつ転校生の少女西宮硝子(しょうこ)を無理解のままに虐めてしまい、ある出来事をきっかけに周囲から完全に孤立。以来、常に下を向いて、罪悪感と自己嫌悪を抱えながら過ごしてきたが、高校生になって西宮と再会することで、彼らを取り巻く人間関係が少しずつ変化していく……という物語。

 この映画、なにが素晴らしいといって、とにかく音響が素晴らしい。
 聴覚障害をもつヒロイン硝子はほとんど音声言語では喋れないし、中心人物となる将也も不器用で心を開かず、全編を重苦しい閉塞感が覆っている。
 その心情を、環境音楽に近い劇伴が多弁なまでに語っているのだ。

 とりわけ印象に残ったのが、

・少し遠くで鳴っているようなひずんだピアノ
・要所要所で聞こえる様々な水の音
・微かに聞こえるノイズ

 の三要素。
 全編がコンセプチュアルにデザインされて貫かれていて、アニメーションと侮るなかれ、音響・音声だけをとっても最高傑作と称したくなる出来だった。

 制作の経緯については、ソースがWikipediaではあるものの、こちらの記事がよくまとまっているのでまるまる引用したい。

制作初期〜コンセプトワーク
音楽には、「"きこえ"としての音だけでなく、物質としての音、人の生理に訴える音を大切にしたい。普通の劇伴ではなく電子音楽で、周波数帯域とか、顕微鏡的にちゃんと音を見て作ってる人が良い。」という山田監督の直接指名により、電子音楽家agraphこと牛尾憲輔が起用される[57]。通常の劇伴音楽では、音響監督や選曲担当がシーン毎に音楽のイメージをまとめたメニュー表を作成し、それを元に作曲家が制作、納品する流れが一般的である。しかし、今作ではそのような形は取らず、脚本が完成した初期段階で牛尾が制作チームの一員として参加し、監督の山田と作品の根幹に関わる観念的で抽象的なコンセプトの共有が徹底して行われた。
具体的なコンセプトワークとしては、画家であればジョルジョ・モランディの描く静物画の影やヴィルヘルム・ハンマースホイの光の描き方などを元に、"影のにじみ"や"レンズのぼけ"といった物理現象を"音"という物理現象に置き換えていくようなコンセプトなどが共有される[59]。また他にインタビューで言及されている、山田と牛尾の間で参照されたものは以下の通り。
現代美術家のゲルハルト・リヒター[60]
写真家のベアーテ・ミュラーやアンドレアス・グルスキー[60]
コンセプチュアル・アーティストのジョセフ・コスース[60]
紀友則の詠んだ百人一首「ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ」[60]
以上のほか、音楽や映画、絵画や彫刻、舞踊・写真・建築まで含めて、具体的な固有名詞でのやり取りが交わされた[61]。

補聴器についてのリサーチ

またコンセプトワークに加え、作中で重要な役割を果たす補聴器についてのリサーチも行われた。補聴器は耳につけるアンプであるため、原理的に雑音という形でノイズが入る。そのノイズをどこまで拾うのか、ノイズと楽音の差は何か、意味のある音とは何なのか、といったことが考えられた末、アップライトピアノというモチーフに辿り着く。実際の制作にあたり牛尾は、「アップライトピアノは鍵盤に爪が当たる音、押された鍵盤によって木製のハンマーが動く音、消音ペダルを踏んだときのフェルトが擦れる音、弦が鳴ったときの共鳴板がきしむ音などさまざまなノイズが鳴ります。なので、それらをすべて録り切るというコンセプトを立て、そのためにピアノを解体し、なかにマイクを設置することで、楽音ではなく雑音を含んだ総体を録るつもりで録音を進めました。」と振り返っている[59]。また、そのコンセプト自体が、自分を取り囲むあたたかで美しい世界から目を背け、耳を塞いでしまっている主人公・将也にも重なり、その将也を取り巻く世界を描き出すのにも、映画館のなかを取り囲む、そうした雑音を含んだピアノのサラウンドが必要で、映画『聲の形』という作品自体にも繋がるものだと気付いた、とも語っている[59]。

実制作〜完成

牛尾は曲になる前段階の「スケッチ音源」を制作し、それを山田監督に送付。一方監督からは絵コンテを受け取る、といったキャッチボール形式にて実制作が行われた[62]。また、その絵コンテはデータ形式ではなく紙面で送付され、それを譜面台に立て、作曲が行われた[37]。絵コンテが全て仕上がった段階ではすでに40曲程度が完成。シーン映像に音楽を当てはめるレコーディング作業には山田と牛尾が立ち会い、画面を見てその場でのアレンジや調整、新規音楽の制作が並行して進められた[63]。最終的には82曲が完成。その内約50曲が本編に使用された[61]。本作の劇伴制作を振り返って牛尾は、「将也の物語に寄り添う影のような存在になれたかもしれない。そこにあって当然で、無いと違和感があるが、特別に意識することはないくらい映画と一体になった。」と述べている[64]。
本編未使用曲を含める全61曲を収めたオリジナル・サウンドトラックアルバムが同年9月14日に発売された[65]。

その他・エピソード

映画本編を「主人公・将也が2時間かけて生きるための練習をする」と捉え、それに重ね合わせる構成でJ.S.バッハ作曲の「インベンション」という練習曲を元にした楽曲が使われている。具体的には、3つのパートに分かれているバッハのインベンション同様、映画自体も3つの構造に分け、第1パート・第2パートではそれぞれ元にした曲を、"将也の練習"が終わる最後のパートではオリジナルのインベンションが使用された[59]。
植野がバイトをしている猫カフェでかかるBGMは「(i can)say nothing」という題名の牛尾作曲のサントラであるが、その歌詞は英語で「あなたを目の前にすると何も言えなくなっちゃうの」といった内容の曲となっている[66]。また終盤、退院した将也が植野と公園で会話した後の自宅BGMにも同じ曲が使用されている[67]。同様に、将也と永束が初めてファストフードで食事をするシーンで流れる「laser」は、物語の最後、将也が文化祭で自分のクラスに帰ってくるときにも流れる[68]。それに対しては、「永束くんにとって"laser"は"将也との友情のテーマ"。だから文化祭のときに将也が来ることがわかっていた永束くんは、ずーっとループであの曲をかけてクラスで待ってるんですよ。そのあと将也を追いかけていく永束くんが教室のドアを開けると、いったん下がっていた"laser"の音量がもう一回上がる。それはそこに永束くんの気持ちが乗っているからなんです。」と答えている[69]。
最後の文化祭のクライマックスシーンに関しては、監督の山田と音楽の牛尾ともに、着想が得られるまで時間がかかったが、京都アニメーションのスタジオ近くの河原に行くことでイメージが広がり、"気づき"があったという[70]。

(2020年1月17日1:00アクセス)

 ちなみに、Wikipediaは詳しくまとまり過ぎているあまり、ストーリーが結末までネタバレされているので、未見の方は読まれないほうがよいかもしれない。

 映画の公式サイトにも、より詳しい牛尾憲輔氏のインタビュー記事が掲載されているのでご紹介したい。

 私にとっては心にグサグサと刺さる、まるで奇跡のような音響だった。創作表現の「凄み」が、まさにそこにあったと感じた。

 ちなみに上記のサイトではあまり触れられていないが、劇中で数秒だけ歌われる合唱曲『怪獣のバラード』も、私にとっては学生時代に歌ったことのある思い出深い曲だったりする。

 歌詞がまたいい。
 将也が心の内に飼っているのは、いわば「怪獣」だし、幼い少年の目に映る耳の聞こえない少女もまるで「怪獣」。怪獣は人から恐れられ、疎まれる存在かもしれないが、

海が見たい 人を愛したい 怪獣にも心はあるのさ

 と、人間には届かない、言葉にならない孤独な叫びを上げているのだ。

 川の底から鯉を大写しにするカットなどはまるで「海」で、ゴポゴポ、ゴウゴウとたくさんの水が流れる音がサラウンドで鳴る。硝子の筆談ノートが落ちるのも水の中なら、冒頭で将也が飛び込もうとするのも水の中。
 人間が聞いている音声とはつまり空気の振動であり、花火大会のシーンで硝子が「聞く」のも腹の底にまでビリビリと届く振動だったわけだが、それを「聞いて」しまったからこそ硝子は、ある行動に出る。
 海はよく「母」に喩えられるが、胎内のように空気の振動のない、水に満たされた世界なら幸せで安心だったのに、空気のある世界に生まれてしまったばっかりに、ビリビリと震える振動が齟齬や軋轢を生む。

 つらい、苦しい、切ない、けれど温かい。涙なしには観られない、素晴らしい映画だった。

 最後に、この素晴らしい作品を作ってくれた京都アニメーションに、惜しみない拍手を。そして鎮魂の祈りを捧げたい。

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