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『擬娩』再演 俳優レポート|三田村啓示

2019年12月に京都と沖縄で初演した『擬娩』を、2023年2月に東京で再演しました。公演の詳細な情報についてはこまばアゴラ劇場のWEBサイトよりご覧ください。
再演に参加した出演者が、『擬娩』の経験について執筆したレポートを掲載します。三田村啓示さんは、2019年の初演と今回の再演に出演してくださいました。


『擬娩』俳優レポート|三田村啓示

したため#8『擬娩』 photo by Toshiyuki Udagawa

 某日、ある雑誌を流し読んでいると「芸術家であるということは、だれも敢えて失敗しないようなやり方で失敗することだ」との過去のベケットのことばが目に入り、稽古期間中だったからというのもあるのだろうが、「失敗」ということばに引っかかりを覚え、「擬娩」という作品がやっていることに思わず結び付けて考えていたし本番期間中もどこか頭の隅にあった。改めてこの作品は、「いやー、やろうとがんばってみましたけどやっぱり無理でしたわ」ということを見せている感じがする。大失敗のさまを見せている感じがする。もちろん作品が失敗作だということを言いたいわけではない。どうもこの作品はあらかじめ失敗を上演すること?をやろうとしているように思える。ではそもそも失敗とは何なのか? では成功とは? 
 まず前提として、この作品は「擬」娩であり、妊娠・出産の「リハーサル」=本番と同様に進行する総稽古であって、本番ではあるのだが本番ではない。まだ稽古のうちにたくさん失敗しておくことが大事、なんてこともよく言われるように、この作品自体ある程度の失敗が――もしかしたらこれはまちがっているのかもしれない、ということが、その性質上織り込み済みのものなのである。そしてこの作品において究極の成功は恐らく、俳優たちが劇の進行に沿って本当に妊娠・出産する当事者に限りなく近づくことなのだろう。それは俳優が妊娠・出産をする人をシンプルに演じる・代理表象する演技ではなく、妊娠・出産にまつわる極私的事象そのものを代理表象する演技で限りなく妊娠・出産の当事者に近い存在となり現前すること、とでもいえばいいのだろうか。しかし再演も経験して改めて、シンプルな代理表象ではないこの「成功」への近づきすらいかに至難の業なのかということを実感してもいる。上演の時間の中で、俳優の体には妊娠・出産にまつわる身体の変化が実際に起きることはない。正直なところ何も起こらない(少なくとも私は)。作品中俳優は主に身体の変化をことばで対外的にも提示しつつ、同時にそのことばで自身の状態を規定し身体でもその状態をやってみようとする、という演技を随時必死に行っているのだが、それはいい悪いを超えてどうにも空転しているというか何も起こらないので空転せざるを得ない。

したため#8『擬娩』 photo by Toshiyuki Udagawa


(個人的にはこの空転具合については、何故かはわからないのだがこの度の再演の方が強く自覚した。どう空転するか、ということ、言い換えれば素の私と妊娠・出産の状態をやってみる私をどう往復/空転するか、これはわたし、これはわたしじゃない、という空転の自覚のレイヤーを入れるのか、など、上演を通して観客と対峙していく中で恐らく誰にもわからない程度に試行錯誤していた気がするし、この往復と空転、非当事者・当事者間のラインの跳躍をどのような手つきや深度、強度、細やかさで行うかということは、このような作品にとってまだまだ探求しがいのある部分ではないかと思う。)

したため#8『擬娩』 photo by Toshiyuki Udagawa


 そして演技をやればやるほど空転すればするほど、私は今ここで上演している限り、妊娠・出産の当事者になることはできない/当事者として現前することはできない/この私はどこまでいってもこの私でしかない、というある意味当然のことを、特に私は劇中の出産シーンのあと強く感じる。しかしながら、どこまで演技をしてもこの私はどこまでいってもこの私でしかないのだとしたら、(特にこの作品において)演技という行為自体、失敗とはいかないまでも常にある断念が約束された行為なのだろうか。結局非当事者である演技者は当事者を追い続けるしかない存在なのだろうか。私はきっと代理表象への懐疑の時代・当事者性の時代に俳優という存在はいかにして可能なのか、当事者と非当事者を架橋する存在として在ることは可能なのか、改めて確かめてみたい気持ちがあるのかもしれない。

したため#8『擬娩』 photo by Toshiyuki Udagawa

 
 そこでいささか唐突だが、当事者と非当事者は「偶然」そのように分けられただけに過ぎないのではないかとも思う。「己の闇は己の闇、他人の痛みは共有できない」「共有しえない闇の重さの、共有しえないということを共有していく」と語った田中美津(1970年代に日本のウーマンリブ運動の中心的存在として活動)のことば及び、田中についてまるまる一つの章を割いて言及される脇坂真弥『人間の生のありえなさ―“私”という偶然をめぐる哲学』(青土社、2021年)の収穫は私にとって、もしかしたら偶然性の視点から当事者性と代理表象について考えてみることができるのかもしれない、ということだった。そして私は田中の言う「とり乱し」と、この作品での演技の空転や失敗性とでもいえるものを、つい結び付けたくなる。 

自分の「現在」がその根幹において偶然の産物であることを知る人、つまり「私はほかでもありえたが、たまたま今こうある」という事実に触れている人だけが、その事実に驚き、とり乱す。田中(美津)によれば、その時はじめて人は自分自身に出会うのである。

(脇坂、2021、p91 )

当然のことながら、他人もまたその人固有のとり乱しを通じて、その人だけの偶然を背負っていることを私に示す。しかし、私が他人のとり乱しをみてその事実に気づいても、「私が田中美津である」以上、他人の偶然を肩代わりすることなどできない。私にできるのは、私はあなたの偶然を肩代わりできないという事実に―つまり「私が田中美津である」という偶然にとり乱すことだけである。したがって、田中が言う自他の「出会い」は、他人の取り乱しを通じて他人もまた他人だけの偶然を負っていることに気づき、「そのとり乱しに対してとり乱す」という終わりのない行程を意味している。彼女(田中美津)は、この行程を「祈り」と呼ぶ。

(同上、p92-93)


 思索の途中ゆえか抽象的な次元の話に帰着させざるを得ないが、偶然性というところからこの作品について新たに想像してみる(あるいは祈ってみる)。この作品において成される演技の果てにあるのは、この私はほかでもありえたが、たまたま今こうあり、それはどこまでいってもこの私でしかないという「とり乱し」の中で演技するという、代理表象の不可能性を自覚したある種の失敗性の開示を通して、無数の「とり乱し」に出会うこと――出演者も観客席の経験者も未経験者も当事者も非当事者も、誰も他のだれかの肩代わりをすることなどできず、かつ私たちは偶然その立場に収まっているに過ぎないという事実を、根源的偶然性を了解すること、すなわち「己の闇は己の闇、他人の痛みは共有できない」ことに出会い、それらの「共有しえないということを共有していく」ことが、上演の場で起こること…

したため#8『擬娩』 photo by Toshiyuki Udagawa

三田村啓示 みたむら・けいじ
主に関西圏を中心に活動。ジャンル・地域を問わず、俳優として様々な演出家・劇作家との創作に参加。第18回関西現代演劇俳優賞受賞。公益社団法人日本劇団協議会機関紙『join』99号特集記事「私が選ぶベストワン2020」において、毎日新聞大阪本社学芸部・畑律江氏のベスト1助演俳優に選出。また、過去には明倫art(京都芸術センター発行)の演劇レビュー執筆、大阪アーツカウンシル・アーツマネージャー、伊丹AI・HALL次世代応援企画 break a leg 選考委員、近年では大阪の老舗小劇場・ウイングフィールド主催のコンペティション・WINGCUPの審査員を務めるなど、活動は多岐に渡る。

※三田村さんが『擬娩』初演の経験について書いてくださったレポートは以下からご覧いただけます。


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