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「人間的な成長」と「社会人としての成長」は違った、という話。

私はこの頃、社会人としての成長、とは、人間的な成長とは少し違うのではないかと感じている。

社会人としての成長と、人間的な成長は、大きく「誰のために成長するか」が違っている。

人間的な成長とは何だろう。


私は、自分が子供だった頃に、「若いうちに○○しておきなさい」「多くの本に触れなさい」「惹かれる人には積極的に会いに行きなさい」と先生や両親が呪文のように繰り返すのを、疑問に思っていた。なぜ、皆言うことは同じなのだろう、と。だが、それは今となっては、人間は「経験をもとに語られる」からだと思っている。あの頃の大人たちが言いたかったのは、経験の蓄積が、新たな経験への扉を開く、ということだったのだと思う。

まずは、この「経験の価値」がベースになる。

そして、「人間は、苦しみを乗り越えて成長する」。それが、今の私の中での「人間的な成長」の答えである。

人間は、まず何かを経験をしたただけでは、脳は一番低エネルギー・低ストレスで済むために、楽な思考回路を辿るため、意識的に経験の次のアクションを選び取らないと、古い慣習から抜け出せなくなり、そこに成長は見られない。(と、某米国サイエンス誌で学んだ。)だから私は、少し面倒くさい、嫌だと思っても積極的に挑戦するようにしてきた。そして、その不快な感情に立ち向かい、何かに挑戦すること、それは多くは精神的な成長、を意味し、時にかなりの痛みを伴う。その痛みは、程度によっては体を傷つけられたのと痛みと同じような痛みである、と著名な心理学者 Guy Richは語っている。我々は怪我の対処の仕方を知っているが、精神的ダメージへの対処の仕方を学ばないため、一度壊れると、修復までにかなり時間がかかってしまう、とも。それほどまでに、一度壊れたり深く傷つけられては大変厄介な苦痛をもってして、私たちは成長する。

まだ20代半ばである自分は、これからさらに辛いことにも直面し、そのたびに成長するのかもしれないが、過去の経験を振り返れば「誰かへの依存」というフェーズから抜け出し、精神的、人間的に成長するために、3年もかかった。最後にはまさに身を切るような痛みを抱えなければならなかったが、その辛かったという「経験」を通して、次は自分がどうしたいか、何ができるかを初めて知る ことができたのである。そこに人間的な成長、があったのだと思っている。目に見える成長というよりは、

「○〇が起きたときには、××する・したい」、と選択できるための知識と経験の引き出しが増えたのは確かで、そういう意味では確実に成長しているのだと思う。


ではそれが人間的に成長することだとして、今回敢えて取り上げた、「社会人としての成長」とは何なのだろうか。

社会人としての成長とは何だろう。

「成長」という言葉に類似したものとして、「社会人経験」という言葉があるように、確かにまずは、スキルや知識を身に着け、場数を踏むことが成長なのかもしれない。だが、それ以上に2年目となった私が思うのは、社会人としての成長とは、「やりたい」(want to do)ことと「出来る」(can do)ことの違いが判断ができ、「出来る」ことの価値を最大化する人間になること、のように感じている。

その意味では、少しだけ人間的な成長とは異なっている。

なぜなら、「人間的な成長」は自分のための「成長」であるのに対し、「社会人としての成長」は一部「会社のため」に「成長」する、ことも含まれているからである。

(日本の)ビジネスにおける代表的な言葉に、「忖度」と「接待」がある。

まず、「忖度」について。
一昔前に、「忖度」という言葉が流行り、いまとなっては会社内で冗談のようにその言葉が使われているのを耳にする。この言葉は、職場であるからこそ意味をなすものであり、まだ「出る杭は打たれる」傾向のある日本の職場(これは私の日系企業のお客さんを見た経験から言っている。。)にはもってこいの表現だ。厄介なのが、自分が成長したいときに、忖度は邪魔になってくるということである。具体的な例を言えば、自分のステップアップのために社会人としての年次に関わらず、立候補する。上司の意見にも、付和雷同する。一部、忖度をうまくこなすことで気に入られ、昇進をする方もいるらしいが、それは「忖度」が「スキル」に変わっているため、商習慣的な忖度ではない。

そのため、多くの場合は、「忖度」をすることで、「自分らしさ」を「会社のために」捨てていることになる。だが、それを重ねて、「やりたい」ことと「できる」ことの区別をつけ、私たちは社会人として成長する。

次に、「接待」である。
今までドラマや小説やお笑いのネタでしか聞いたことがなかった「接待」が、コロナが落ち着くにつれて増えてきて、度重なる接待ディナーに、胃がキリキリと痛む。ディナー以外にも、多くの「会社のため」の「お客さんのため」に行う非常に閉じた世界での「お約束事」が存在している。

タクシーチケット、お土産、お酒をつぐ、話を聞く、盛り上げる、メールを書く、お客さんのための上司のメールを新人が書く…。

それらは、なぜ対等な人間がビジネスという枠組みだからといってやらなければならないのだ、と思うことばかりだ。だが、「やりたいこと」ではなく今の状況で「会社のため」に「できること」を淡々とこなす。それが未だに日本のビジネス界の現実だった。

私には、もはやこの状況が興味深いとさえ思う。おそらく、この不可解極まりの無い商習慣を、当たり前と思って楽しむくらいではないと、乗り越えることができないのだ、と納得する。だが、無理な人は無理に決まっている。なるほどね。25歳前後で脱サラして、自分が本当にやりたかったこと、自分のためにできることを目指し始める人が多いのは、こういうことか、と身をもって知る。

そして、会社員になった時点で人生半分決まったようなものだ、という耳の痛い話を何度も耳にする。何を言うのだ、それでも私は成長し続けているのだ、と言い返したくなったが、そう言われるのは「やりたいこと」を殺し続けているから、なのだと思う。一日のうちの時間をほとんど全振りして「自分のため」でなく「会社のため」に費やしているから、なのだと思う。

「忖度」と「接待」という二つの例をあげたが、やっぱり、「やりたいこと」と「できること」の区別をつけ、「できること」の価値を最大化することがどのビジネスシーンにおいても求められる。

そしてそれが慣れや積み重ねとなって、「成長する」。とあるシーンでどう振舞うかを熟知することによって、(諦める、我慢する、を知ることによって)会社とそのステークホルダーとのやり取りによって、より高い効果が得られる。会社にとっては、それが全て。その決まりを知ってしまった私は、まだ2年目の初夏であるが、確かに「社会人」として成長したと思う。人間的な成長と比べた場合、「場面」や「シーン」「誰のために成長するか」というスケールが小さすぎる。

であるならばやはり、まだ若いうちに、限られた時間の中で「社会人として成長」するだけでなく、「人間としても」成長したい、と思ってしまう。かたや「会社のため」にその枠組みの中で成長し、かたや「自分で決めて、自分のために」物事を起こし、その枠組みの中で成長する。1年間、with or without会社、で比べてみたらどれくらいの差が生まれるだろうか?

そして、私は1年前の自分と今の自分を比べて、思った。一体、この1年間ン会社のために生きてきて、いったい人間的な成長はいくらあっただろう?と。もちろん、精神的な成長はあったし、経験は時間の分積み重なった。だが、もし会社のためにやっていなかったら、どれだけ自分軸で考えた成長ができたのだろう?

二つの成長が重なるとき。

だから私はこう誓った。生きていくために社会人として働かなければならないなら、その中で人間的な成長ができるように、「自分主体」でかんがえよう、と。会社員としてしか得られない経験も山のようにある。ただ、それを例えば「1年目の時は現場での実務を通して、○○を学んだ」と語るなどといった、社会人としてのレンズのみで見ないようにしたいのである。

社会人として触れた機会が、人間としての自分の人生というピースにどうはまっていくか?それを、これから見極めていきたいのである。


以上、一営業のちょっとした小言である。


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