受験における知識の扱い方~収集ではなく選択を~

私は受験勉強というヤツが苦手である。せっかく受験に出るとされる知識を覚えた気になっても、その知識を使って正解に辿り着くことが困難であった。解説を読めば「あぁ、そんな簡単なことだったか」とその解説に記載されている事項を記憶しても(したつもりになっても)、結局本番でその知識が使い物になることはあまり、というかほとんどなかった。事実、3回連続で択一の足切りという形で司法試験に落ち続けたという事実がそれを物語っている。
※司法試験は論文試験と択一試験が課されるが、択一試験の最低ラインを下回ると論文試験の採点をされることなく不合格になる仕組みとなっている。択一試験は憲法(50点満点)、民法(75点満点)、刑法(50点満点)の3科目からなり、それぞれの科目の4割を下回る科目が1つでもあればその時点で不合格、そしてその3科目の合計点が一定の最低ラインを下回っても不合格となる(最低ラインはその年ごとに変動する)。

単純に勉強量が不足していると言うだけであるならば勉強量を増やせば良いだけなのだが、それだけでは解決しないのがこの問題の根深いところである。少なくとも高校までの定期試験であれば学生に単位を与える試験であるという性格も相まって、知識をがむしゃらに詰め込むという方法でも一定の成果は見込める。しかし、大学入試以上の難易度を誇る試験においてはただ知識を詰め込むだけの勉強ではなかなか思い通りの成果は出てくれない。そして勉強の方法の修正が出来ないと、何年も浪人生活を強いられることになる。私は高校までの定期試験の勉強の延長戦で大学入試やロースクール入試、司法試験の準備をしてしまっていたので、長らく誤った勉強方法を修正するのに苦労した。特に高校までは効率性ガン無視のひたすら勉強時間を増やすやり方に拘って見かけ上の成績は良かったものだから、効率的に複数の科目を要領よくこなす必要のある受験というシステムに対応仕切れないまま歳月を費やしてしまった。第一志望の大学とロースクール入試に小論文がなければ今頃どうなっていたのか想像さえ出来ない(私はどうやら小論文だけは得意なようであったが、それも司法試験では悪い方に作用してしまったらしい)。

そして、要領の悪さの極みであった当時の私は結果の出ない現状に対してどのように判断したのかといえば、「自分は合格に必要な知識が足りないから合格できないのだ。ならば、ひたすら知識をインプットすべし」と他の失敗の可能性を全く考慮することなく、ひたすら合格に必要だと自己判断した情報を収集することに時間を充てた。ほとんど復習もしていない模試や答練の資料、明らかに資格試験の合格に不要な学術書、半ば現実逃避も兼ねた他の学問分野の本等々。こうして残ったのは足の踏み場もないほど自室の床を埋め尽くす基本書やテキスト、レジュメの山々であった。

受験というのは単純な知識の一問一答とは違う。出題者は何も受験生相手に完全完璧な知識を求めているわけではない。そもそも出題者という専門分野の先達相手に受験生風情が知識の多さ・思考の深さで勝てるわけがないだろう。厳しい制限時間で合格答案を書き上げねばならないのなら尚更だ。受験において大事なことは、矢鱈とマニアックな(受験という文脈においては「ズレた」)ことを知っているよりも、誰もが知っている知識を最大限活用できるか、制限時間内に合格水準に達している書面を作成する能力を鍛え上げることである。例えば、会社法の「株主平等原則」でいえば、新株予約権の発行や吸収合併等の組織再編という事例からでも株主平等原則の問題であると読み取ることが出来るか、といった具合である。基本的なテキストに表面的に記載されていることを順番に記憶するだけではこうした知識の応用は困難であろう。各分野を横断して知識を体系的・立体的・有機的に記憶する訓練をしていないと試験の現場に登場する未知の問題に対して既知の知識を応用して解くということは困難だろう。

こうした能力を鍛え上げるためには、広い意味で論理的思考力が必要となる。「不合格」という結果の原因を分析するにしても、①純粋に知識が足りないのか、②知識はあるが問題を効率的に解く工夫が足りないから時間が足りなくなるのか、それとも③知識はあってもそれを出題者に採点されるような形で答案に表現されていないからなのか、といったような具体的な分析まで出来なければならないのだ。「試験に落ちたからもっと勉強する必要がある」といったような抽象的とさえいえない雑な思考をしたまま合格できるほど司法試験をはじめとした難関試験は甘くはない。法律学は言語という抽象的なものを扱う学問であり、司法試験はその法律学の最高峰の試験である。ならば、自分の扱う法律上の専門用語や条文の文言を論理的に扱う訓練を正しく行う必要がある。

だからといって闇雲に論証の暗記に走ったり、何も考えずに合格者や予備校の参考答案を丸写しにしてみるといった作業は個人的にはオススメしない。どうせするならば、インプットの際に論理的思考力を使ってみる訓練をするのである。具体例を挙げると、行政事件訴訟法上の差止訴訟の訴訟要件(行政事件訴訟法37条の4第1項)を記憶する場合に、一緒に義務付け訴訟の訴訟要件(同法37条の2第1項、同法37条の3第1項)や仮の救済の訴訟要件(同法37条の5第1項・2項)も確認してみるという作業を加えるのである(出来れば実際に条文を引用してみることを勧める)。これらを比較してみると、違う部分があることはもちろん意外と共通している部分もあることが分かるだろう。例えば、行政訴訟法37条の2第1項と同法37条の4第1項の要件を比べると、「重大な損害を生ずるおそれがあ」るという部分は共通しているが、前者は「かつ、その損害を避けるため他に適当な方法がないときに限り、提起することができる」と規定されているのに対し後者は「ただし、その損害を避けるため他に適当な方法があるときは、この限りでない」というように規定されている。こうした要件の違いは何故生じるのかということを頭に入れながら記憶していくのである。
※私見としてこうした要件に差が生じるのは、立法政策上立証責任を転嫁させることで、特に差止訴訟における権利救済を容易にするためではないかと考察している。義務付け訴訟の要件が原告にとって厳しいものとなっているのは、三権分離原則に基づいて裁判所が行政に過度に干渉することを防ぐためでないかと思われる。このあたりの議論を理解ないし考察できるようになるためには、行政法だけでなく憲法や民事訴訟法(民事実務)の知識も要することはあしからず。

一つのことを記憶するのに更に複数のことを持ち出すというのは、論理的思考力がそもそも身についていない者や論理的思考力とは現代文や英語の長文読解くらいにしか使わないと思い込んでいる者にとっては、過度の負担を要求するものと映るかもしれない。しかし、正しく論理的思考力が身についている者であれば、類似するものや対立するものも一緒に押さえた方がかえって記憶しやすいと言うことは感覚的に理解できるのではないだろうか。基本的な情報をただ漫然と雑多に散りばめるのではなく、これらの情報を体系的に・多角的に・有機的に組み合わせて未知の問題解決の糸口とする能力こそが試験において、そして社会に出てからも肝要なのである。

こうした訓練を積んでいけば、必然的に自分の合格に必要不可欠な情報と不要な情報の仕分けができるようになるだろう。そして、不要と判断した情報はアナログ・デジタル問わず断捨離するに限る。使わない・使いこなせない情報をため込んだところで身動きがとれなくなるだけなのだ。情報はコレクションではなくセレクションすべし。情報は集めるだけで使わなければ、そもそも何のために集めるのかを意識しなければゴミでしかない。こうした発想を持てるようになれば部屋の片付けも捗るというものである。

そういうわけで、私は現在「不要」となったレジュメやテキスト、基本書・学術書の断捨離に追われている今日この頃である。

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