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「生皮」あるセクシャルハラスメントの光景 私は加害者なのだろうか

「生皮」あるセクシャルハラスメントの光景 を読みました。
小説講座の人気講師に性暴力を受け、7年後に告発した咲歩を中心に、講師の月島、月島の妻、カルチャーセンターの他の生徒など様々な視点から描かれる小説です。
 折しも、有名映画監督の女優への性暴力が世間を騒がせているので、とてもタイムリーな物語かと思います。
 
 私は男性が男性であるというだけで女性を見下し、その権力を嵩にかけて卑劣な性暴力をふるうなんて許せない、という思いは勿論あります。

 ただ、誤解を恐れずに言うと加害者側の月島の気持ちも分からなくはないのです。

 かつて、私も「何かを表現したい」ともがいていた時期がありました。
 演劇もやったし、文章も書いたし、楽器だって弾いていました。
 何か「表現する」というのは、自分自身のもっとも底にある部分を見せる、ということです。
 それは時に裸になるよりも恥ずかしい。
 勇気を出してそのデリケートな部分を見せたにも関わらず、大抵の場合「話にならない」とか「伝わるものがない」とか「表現が稚拙すぎる」とか言われて鼻で笑われてゴミ箱にポイっと捨てられるような世界です。

 でも、それをして自分よりも表現の世界で成功していたり、尊敬できる「先生」に「よくやった」と認められたらどうでしょうか。
 その「先生」との創作で、自分の作品がどんどん良くなっていくとしたら、その時間は実際に体で交わるよりも濃密な時間です。

 そんな時間を過ごすうちになんか勘違いしちゃったんだろうな、月島さんは。小説のことが分かる自分は特別だ、みたいな。
 小説を書く人間も特別なことをしなければならない、だからセックスする、って。え~~~~っ! 気持ち悪!て感じだが、なんか分かる。
 才能のある受講生に次々に手を出したのも性欲だけではない、と思うんです。

 私自身も創作したい、ともがいているときはその行為はとても特別で、多少認められていた自分は「そのことでしか自分のアイデンティティを保つことができない」みたいな悲壮感がありました。
「他の人と違う自分」でないといけない、みたいな思い。
 どこか「特別な自分」を鼻にかけていたのかもしれない。

 でも、今なら分かります。
 日常生活の日々の営み全てが表現である、と。
 何も書いたり、音楽を奏でたりするだけが表現でなく、家事をする、仕事に行く、電車に乗る、など同じことの積み重ねを地道に重ねていくことこそが最も尊い表現である、と。
 
 なぜか加害者側の気持ちに自分を持って行かれたことにモヤモヤしつつも、自分にもそういう傲慢なところがある、その傲慢な部分で人を傷つけてきたのかもしれない、と反省するばかりです。

  

 

 

 


 

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