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本棚は段ボール Vol.1『夏物語』/川上未映子

どうしてだろう、どうしよう、なんで、どうしよう、
自分が何に対して、なんのことを、なんでと考えているのかさえわからないまま、仕事終わりの駅から自宅までの道を、あるいた。

なんで子供を産もうと思うのか、それだけがこの物語の中でずっとわからない。それ以外、登場人物の心理描写は、すべてわかる。気持ちが理解できる。でも、「子どもを産みたい」それだけは、どうしても、なんでなのかわからない。

まだすべてよみおわっていないのだけれど、この先、答えを得られるんだろうか。納得のいく、こたえがどこかにあるとは思えなくて、ほんとうに世界が違ってしまうくらい、恐ろしくなった。

まず考えたのは、自分の親のこと。
私の親は、私を愛してくれる。人って、こんな愛を持つことができるんだと、今でも信じられないくらい、私を愛してくれていると思うし、わたしは、だから、幸せだ。
でも、それも結果論でしかない。
存在しない相手のことを考える事なんてできないし、子供を産むことは本当にどうしたって、子供はまだ存在していないのだから、親のエゴでしかない。それは確かなことだ。
だからといってわたしの親がエゴで私を産もうが何だろうが、私は親を愛しているし、そんなことはどうだっていい。
だけど、親に、こんな残酷な事実を突きつけられないとだけは思う。きっと、「なんで子供を産もうと思ったか」「子どもを産むのはエゴでしかない」、そんな事実を認識させたくない、絶対に知らせたくない。それを認識した親が苦しむことを考えただけで歩くのさえ辛くなる。

ただ、なぜ子供を、わたしを産もうとおもったのかだけは、気になってしまう。絶対に聞くことはできないけれど、じゃあほかの人でもいいや、わたしじゃない、ほかのだれかの親は、なんで子供を産もうと思ったんだろう。おしえてほしい。

次に考えたのが、世界中の人のことだった。なんでこんなに苦しくなるんだろうと思ったけれど、それは全ての人間に生物学上の、親がふたりずつ存在しているからだった。
道を歩いている、今視界に入る人間にもすべてに生物学上の親がふたりずつ存在し、さらに、その人自身も誰かの親かもしれない。
世界ががらっと変わってしまう。親という存在が、子を産むという事が、恐ろしいほどに残酷な行為だという事実に、こんなにもはっきり、向き合わされてしまったら、私はどうしたらいいのかわからない。わからない。なんで。
私の大好きな人たちの、みんなの幸せそうな笑顔が脳裏に次々浮かんで、その人たちの親が、その人たちの親も、わたしの親も、そんなことかんがえたくない。かんがえられない。誰か否定して、否定してください。

ひとり暮らしの、ひとりきりの家にかえるのがいやで、でも、足も思うように動かなくて、かえらないで、このままどこかまであるいて、も、できないなと思って、結局帰ることにしたけれど、幸せそうな、暖かそうな光の漏れる知らない家族の一軒家に、「ただいま!」とドアを開けると同時に元気に発声して、知らない家の、絵に描いたような、エプロンを着て、おたまをもった髪の毛がひとつしばりのおかあさんが、キッチンから玄関に続く廊下に顔を出して、「おかえり」と笑顔で迎えてくれて、別に私の兄弟でもない、しらない家の知らない小さい二人の男女の子供たちが、あとから走ってきてそれぞれ「おかえり!!」とはしゃいで、「ね、ほら、幸せでしょ。」と、安心させてくれることを想像した。ほら、これがそんな残酷な訳がないでしょう、と、否定してくれることを願った。

だれかにきいてほしいのか、否定してほしいのか、わからないまま、とにかくどうしようどうしようと思って、読み終わったら書こうと思っていた感想文を勢いに任せてかいている。
こんなだれにとどくかも、だれかに届くのかも分からない場所に、

世界が、優しい場所だと信じていたいのに、どうして、人間は滅びないんだろう。どうして、ひとはひとを産むんだろう。





p.s.書いたら落ち着きました。このために、落ち着くために書いたのかもしれない。タイトルだけは書いて、下書きにいれておいたから、温度感が、タイトルと本文とで、全然ちがくなってしまいました。
また、読み終わったら、冷静に、感想を書いてみたいと思います。他に、これをかこう、あれをかこうというのが、あったので。
善百合子さんに、夏目さんが、着いていくシーンで、どうにも混乱してしまい、がっ、と書いてしまいました。



読了後 感想文


「でも結局、夏子さんは、ふつうに、人を愛して、恋愛ができるんだ」
それがなんとなく裏切られた気持ちになった。
何年も付き合った彼氏の成瀬くんとか、逢澤さんとか。
羨ましい。妬ましい。
私は、ちゃんと人を、本当に好きだったことはあるんだろうか。私は人を好きになりたい。ずっと好きでいられる人と出会いたい。いつも、どこか許せなくなったりしてしまうし、「この人とならずっと一緒にいられる」と無条件に信じられるような人に出会えたことがない。そして、これは出会いの問題ではなく、私の問題のような気がする。誰と出会ったって、私はその人を愛し続けることはできないのではないか。
夏子さんはきっと、そういうことを、信じられる人だったから、他人に対してきちんと期待を寄せて、信じることができる人だったから、子供を産みたいと思えたのだろう。
私は、未来の継続する幸せを信じることができないし、だからこそ、自分が努力し続けなければ、ただでさえ信じられない未来が、どんどん悪くなるような気がして、怖くて立ち止まることができないのだ。
現代にはきっとこういう人が多いのではないかと思う。
宝くじはむしろ当たらないと信じているから買えないし、神様や仏様も頭では、いるもいないもどちらも証明できないと考えるのに、心ではいないと信じている。
都合のいいことを信じて、裏切られることが怖くて敢えて信じないようにしているのか、単純に信じられないだけなのか。ひねくれているだけなのか。自分でもよくわからない。
でも、私は、子供を産んで、子供がずっと幸せでいてくれるなんて信じられなくて、だから、子供は産めないなと思う。

だけど世界中の親たちは、きっと、多くが、そんなことを考えず、当たり前に「幸福」がそこにあることを信じるというか、受け入れることができるのだと思う。それは、とても素敵なことで、幸せなことで、世界はやっぱり、優しかったのだと思う。
自分の子供が、不幸になったらと不安にはなるけれど、結局は大丈夫だろう、と心のどこかで信じることができる。そんな優しくてつよい人たちが、たくさんいるってことだ。自分がひねすぎて、あやうくそれを見過ごして、絶望してしまうところだった。気付けて良かった。

結婚についても同じで、離婚がカジュアルでない日本では、きっと「この人となら一生一緒にいたい」となんの疑いもなく、信じることができる、愛を持った人たちがたくさんいることが、この世界の希望なんだと思った。その愛は、他者への無条件の信頼であり、世界への信頼であり、リスクを負っても何かを信じるという選択をした人達なのだと思う。

わたしも、それをもてるようになりたい。私も無条件に何かを信じてみたい。いままでは、幸せでいるコツは良い意味で諦念をもつこと、あきらめること、他人に期待を寄せないことだと思っていたけれど、純粋に、信じてみるのもいいな、信じてみたいなとも思えた。

あとは、善さんが「自分が産まれてきたことを肯定したら、あと1日も生きていられない」と言ったことが、印象に残っている。
産まれてきたことを肯定する隙が、まったくないのに、どうして死にたくないんだろう。なんとなく、この人は自殺しないと思った。
なぜだろう。
私は、いまからすれば、自分に酔っていたのかもとか、本当に死にたいのではなくて、どこかに逃げたかっただけだったのかもとか、分からないけれど、思春期の頃は、死にたいとたくさん思った。そのときは、本気だった。少なくとも、本気で死にたいのだと自分は思い込んでいた。
死にたいと思ったことのない人とは、分かり合えないと思ったし、「でも本気で死にたいと思ったことはないでしょ?」と言われたときには絶望した。
首にひもを巻いてみたりして、わたしは、いつでも、本気になれば死ねるんだと思うと安心した。死ねることが安心だった。
本気になればということはやっぱりそこまで死にたくなかったのかもしれないし、逃げたかっただけなのかもしれない。善さんは、本気で死にたいからこそ、自分で死んでしまうのが怖いという、矛盾が発生したのかもしれないし、そうでないなにかがあるのかもしれない。そこが分からなかった。死を安心と思った私には、死にたくないと、あと1日も生きられない、だから生きられるようにしているという彼女の気持ちが、わからなかった。人間につけられた、死にたいするストッパーが効いているだけで、善さんは、その本能をなしにしたら死にたいのかも。どうなんだろう。

子供がほしいと思うこと、そして子供も自分も幸せでいられるはずと思うことは、明日私はナイフでだれかに殺されるんだ、と毎日思わないことくらいごく自然なことなんだろう、きっと。だから、それを本気で考える方が特殊で、たまに、刺されたらどうしようと思うことはあれど、本気で刺されるはず!死ぬから家からでないでおこうなんて対策までとったりする人は、殆どいないのである。きっと私は、ナイフで刺されて死ぬはずだとありもしない被害妄想をして、家に引きこもっているのかもしれない。

遊佐さんが、仙川さんのお別れ会に行きたくなかったのは、記憶を美化されたくなかったからかもしれない。死んだ人にはもう会えない。だから、記憶はどんどん美化されたり、書き換えられたりする。他人の中の仙川さんを見てしまうことで、遊佐さんの中の仙川さんが変わってしまう可能性がある。だから、忘れないように、仙川さんを、できるだけ、そのまま記憶しておけるように。自分のいなかった場所での仙川さんを知る、他人には会いたくなかったのかもしれない。これは確信めいたなにかではなく、ただ、そんな可能性もあるというだけ。または、そんな会は生きている者のためにしか存在しておらず、仙川さんに対して自身がしてやれることがもう何一つないという虚しさなのか、生きている者のための会をあたかも仙川さんのためという雰囲気で集まる人達には混じりたくなかったか。


天童荒太さんの本で、人はやさしいからほろびないんだと言うような言葉があったと記憶している。その通りかもしれない。よかった。わたしはまだ、世界が優しい場所であることを肯定していられる。

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