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"AIを良いとする" についての意見は一つになるべきなのか?

こんばんは、はぐみです。

「これ書こう!」と決めて数日後。やっと、書く話題です。

本日はテレビを見た感想文、が正しい内容になると思われます。笑


私は今週の月曜日、news zeroというニュース番組で、原爆を実際に経験した方の話を集めてAIにし後世に遺す、という取り組みをしている話を聞きました。

リンク先が私が聞いた内容を番組公式サイトで取り上げているものなので、この回の放送を観ていない方は是非覗いてから読んでくださると嬉しいのですが、

最初聞いた時、私はこれはどうなのだろうと考えました。というのも、AIというのは、世間ではどこか冷たい、心のこもっていないものとして扱われていることがあります。取り上げようとしているテーマは私達にはとても大事な話題で、これこそ「人としての温もり」が乗って受け手に響くものだと思います。

これを聞いてふと頭に浮かんだのは、いつぞやの大晦日の恒例番組で、今は亡き伝説的歌手を、それこそAIで再現するものを披露した時、それを受け発信した視聴者側にいた方々の意見の色でした。

確かにその当時の映像は私の中でも衝撃を受けましたし、正直私自身もあまりポジティブな気持ちが多い感情にはなっていませんでした。小説やドラマなんかでも、怠惰な性格の人ならば羨ましがるくらいに機械を生活に取り入れたような生き方をするストーリーだと、結末や伝えたいメッセージには機械に全頼りする生き方をあまり善しとされない描かれ方をすることが多いと感じています。こういうことから、私の中では何となく 「AI=便利だがそんなにいいものではない」という構図が自然と出来上がっていました。

そんな私の視野で見ていると、今回見た番組内で取材を受けていた男性(AIの作成に協力した方)がAIとして自分たちの話が遺っていくことに関して、ありがたいし貴重なことと仰ったんです。それを聞いた時、私の中でそれは初めてに近いパターンで、驚きの感情が大きかったです。こんな意見の在り方もあるのか、というのが言葉に代えた感情です。

確かに、私が学生でいた世代は然るべき時期に実際の体験者から戦のあっていた時代の状況を聞くことが出来ました。しかし、時の流れは止まるわけはないのでいずれは経験者から直接聞けなくなる日がやってきます。その時代を生きる学生に対して、「それくらい月日が経っている、遠いもの」としてただの歴史の授業にするのは最悪の結果だと私は考えます。

私はテレビを通して”AI語り部”が働く模様を拝見しましたが、聞き手に返ってくるのは電子音声ではなく、実際にいる人が語る、その人の声とそこに乗る感情、それと語る姿が私達に届きます。番組のキャスターが実際に”AI語り部”を体験する様子がありましたが、視聴者だった私も映像を通して、その語り部のお話に感情が動いてしまいました(語っている男性自身の経験の描写が伝わってきた)。まだ開発は十分でなくこれからもたくさんの方の協力が必要な段階である事が最後に伝えられていましたが、私はこの開発については信頼しても良いと思えました。


今回の話をうけて、私はAIについて肯定しても良い状況、”否定が正義”なんて枠組みはない状況がある事を実感しました。何事も時と場合によることは勿論そうなのですが、人と意見交換する場では何らかの「流れ」というものができやすい状況にあって、私はその中でなるべく波音立てずに生きるための術をとることを最優先に考えてしまいます。そしてその繰り返しが自分の頭に定着してしまうことも今回のようにある訳ですが、これもまた今回のようなちょっとしたきっかけで「大丈夫なんだから自分はこうしよう」が出てきて、生き方をもっと強くする方向に学習をもっていくことがあります。

今週の経験は、こうして複数の意味で学習が出来ました。自分にとってはいい学習になったと思ったので、ここにその痕跡を残します。

頂いたサポートにお応えできるよう、身を引き締める材料にしたいと考えています。宜しくお願い致します。