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物語からはじまるショートショート 〜第六回『森の絵本』より〜 前編

「森に…」山下老人は、少しかすれた声で語り始めた。

「森に、呼ばれたことがあるんです」


「森に呼ばれる?」

 僕は要領を得ないまま、聞き返した。

「ええ、ええ。そうです。あれは、今から四十、いや五十年も前になります。あなたくらいの年格好の頃にね、森から急に声が聞こえて」

 山下老人は、僕の住むアパートの斜向かいに家を持つ紳士だ。よく喋る小太りの奥さんと、猫二匹と、小さな庭のついた一軒家で暮らしている。僕が、ゴミ出しのついでなんかに煙草を一服ふかしていると、時々こうして声をかけてくれるのだ。

 はじめは、目が合うと会釈する程度だったのだが、僕が彼の家の松をしげしげと眺めていたのをきっかけに、こうして顔を見ると、どちらともなく話すようになった。いつも、抹茶色のポロシャツとか、からし色のベストとか、目立ちはしないけれど品のある服を着ていて、真っ白な短髪をきれいに整えていた。毎朝、五時からのウォーキングは欠かさないのだそうで、背筋のしゃんと伸びた、気持ちの良い人だ。

 何より彼の庭が、人柄をよく表していた。門扉の真上には、横にぐっと伸びた松。それから、モクレンに、ツツジ、キンモクセイなど、庭を囲むように木々が立ち並ぶ。真ん中あたりに、トマトやイモを育てている小さな畑があって、その目の前に縁側がある。花好きの奥さんのものであろうパンジーやミニバラの鉢が並んだそこには、庭道具もきちんと並べられていて、雑草は少しも生えていない。

 僕がライターに火をつけ、ふーっと一回目の煙を吐き出したくらいで、そんな庭の植物たちの隙間から、さっきみたいに、縁側に座った山下さんが腰をちょっと浮かして、顔を覗かせるのだった。

 

 今日の山下老人の話しぶりは、いつもと何か違っていた。穏やかな表情に変わりはないけれど、とても大事なことを言うように、真っ直ぐな目で、前を見つめていた。

 「何故、森からの声だ、とわかったのか、今では全く思い出せません。でも、木々の奥の方から確かに、ここだよ、という声がしたのです」


 ……山下青年は、その声に誘われながら、少しずつ歩みを進めた。

 足元の湿った枯葉を、くちゃ、とふむ音。遠く、小鳥の鳴き交わす声。時々、風で葉の一枚一枚がざわめく。

 そんな音が身体に響いてくるくらい、森はとても静かだった。

 柔らかい緑の暗闇に、ちらちらと木漏れ日が差し込む。土と、新鮮な空気の、冷たい匂い。森という場所に来たのは、いつぶりだっただろうか。

 森に立つ木たちは、彼の何倍も背が高かった。どっしりと太く、時の長さを示すようなその高さのおかげで、いつもより、空が遠くなったみたいに見えた。山下青年は立ち止まり、甘いため息とともに、その景色を見つめた。

 すると、今度は、さっきよりもはっきりと、「きみのだいじなものをさがしにゆこう」「きみのたいせつなものをさがしにゆこう」と聞こえた。

大事なもの?大切なもの? 彼は首を傾げた。そんなもの、探すまでもない。俺は知っている。結婚して五年の妻に、三歳の娘。父に母、兄妹たち。それに仕事。買ったばかりの家。

 …でも、彼の足は、声にどんどん導かれていった。

 

 どれくらい歩いただろう。気づくと、ちょろちょろと音が聞こえてきた。たどっていくとやがて、ざぼざぼと勢いよく流れる川が見えた。人の体よりも、うんと大きな岩に囲まれた川。その水面で、星の花火のように、小さくたくさんの光が、いっせいに瞬く。晴れの日の水は、目に痛いほど眩しい。


 さーーーっ

 ちろちろちろちろ

 と、と、と、と、と

 ざぼざぼざぼ

 どっどっどっどっ

 

心地良いテンポで、右耳と左耳が水音に囲まれる。体の内側まで水が流れてきそうに、近い。

 

 川沿いを登っていくと、崖にちらほらと花が見えてきた。濃いピンクに、紫、黄色、赤。目の奥まで焼きつくような色とりどりの生命たち。やがて、丘のようになった小さな高台に出ると、ぐるりが花でいっぱいになっていた。

 花びらが、そよそよと揺れる。昔、近所の気の強い女の子に、花冠を作ってくれと強いられて困ったことを思い出す。

 俺ときたら、昔から、頑固な花好きの女が好きらしい。皮肉っぽくにやりと笑うと、彼は久しぶりに花を摘み始めた。しかし、奇妙なことに、摘んでいくそばから、花は跡形もなく消えていった。


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※『森の絵本』長田弘/文 荒井良二/絵 講談社刊

この連載では、皆さんもお手に取ったことのあるような、既存の「物語」をもとに、新たな超短編小説(ショートショート)を作り出していきます。次回の更新は、6月20日月曜日の予定です。お楽しみに。

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