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物語からはじまるショートショート〜第七回 『森の絵本』より 後編〜


森はだんだん深まっているはずなのに、山下青年は少しも不安ではなかった。

 また、木ばかりの平たい道に出た。風は止んでいたが、さっきより空気が冷たい。彼は少し疲れたので、倒木を見つけて腰かけることにした。

 木が高く、葉を繁らせているので、太陽の姿が見えない。間接的な光で、道は見えるけれど青っぽい。ここまで来ると当然、人の気配もなく、気づくとあの声もしなくなっていた。

 彼はただ、遠く深く、永遠のように続く森を、じっと見つめた。黒いような、緑のようなぼんやりが、どこまでもどこまでも見える。

 森は沈黙していた。音と空気が一緒に眠っているような、穏やかな静けさ。何の匂いもせずに、ただただ、澄んでいる。

 彼は、自分がだんだん、静かな緑の中に融けていくのを感じた。髪が一本一本伸びて枝となり、葉をつけていく。少しずつ少しずつ、背が伸びていく。足はだんだん乾いて、固くなっていき、二つ三つと、枝分かれを始めた。

 ずっとずっと昔、こんなふうに息をしていた。

 彼はそう思い出した。全身で陽の光を受け、深呼吸とともに、酸素を吐く。胸が締め付けられるほど愛おしい朝日の匂いや、身体に沁みわたる雨の感触。天から与えられたものへの喜びは、吹き渡る風のリズムに合わせて踊って示した。

 それから、それから……

 「あなたーー」

 「とーうちゃーーん」

 不意に、耳慣れた、人間の声がした。山下青年は、目を見開いた。

 ここはどこだ?青年は、妻と娘の声を探した。

 そこは森の入り口だった。背後遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえる。振り向くと、向こうの大きなクスノキの下に、小さく二つの人影が見える。

 「とうちゃーーん」

 もう一度、娘が叫んだ。彼は振り返ることもなく、少し駆け足で、その森を後にしたのだった。

 「…それから、もう二度と森に呼ばれることはありませんでした。私も、思い出すことなどなかったのです。しかしね、しかし、何故だかわからないが、君を見かけるようになった頃、私はこのことを夢に見てね。それで、ああ、こんなことがあったなと思い出して、いつか君に話そうと決めたんだ」

 最後の言葉を少し照れ臭そうに、こめかみを掻きながら小さな声で、山下老人は言った。横顔が、少年のようにあどけない。

 「いやあ、ずいぶん話しこんでしまって、悪かったね」

 僕は老人にとんでもない、と返したが、結局、すまないからと、今朝とれたばかりの野菜をいくつか、袋に詰めて持たせてくれた。

 

 あれからもう五年が経った。その後、僕は山下老人に会うことはなかった。何故ならその話を聞いたのは、僕がアパートを引き払う一週間前のことだったし、去年久しぶりに訪ねてみると、山下老人の家はなくなって、無機質なコインパーキングになっていたからだ。手入れの行き届いた美しい松の木も、奥さんの鉢植えも、嘘みたいに消えていた。

 それなのに、僕がこの話を覚えていられるのは、もちろんあまりに奇妙な話だからでもあるのだけれど、その後出会った、ある絵本のせいでもある。

 引っ越してから数年経って、山下老人のことなどすっかり忘れていた頃、近所の本屋で、数冊積まれた絵本を目にした。

 『森の絵本』。少し前に訃報の流れていた詩人である長田弘の、追悼フェアか何かだったと思う。名前しか知らなかったその詩人の本を迷わず手に取ったのは、表紙の鮮やかな緑が、鮮烈に、山下老人の話を思い出させたからだ。

 その本は今でも、僕の机のすぐそばに飾ってある。時々、呼ばれたように開きたくなるのだ。

 それは、山下老人のせいだろうか。それとも、絵本の始まりの言葉のせいだろうか。

 「どこかでよぶ声がしました。でも見まわしてもだれもいません…」


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※『森の絵本』長田弘/文 荒井良二/絵 講談社刊


この連載では、皆さんもお手に取ったことのあるような、既存の「物語」をもとに、新たな超短編小説(ショートショート)を作り出していきます。次回の更新は、7月20日火曜日の予定です。お楽しみに。

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