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大部屋の効能、動物園の猿感について

夜、軽いいびきの音がすること
看護師さんと話している声がすること
カーテンの向こうにいる人が誰かしらないけど
カーテンの向こうに人がいること
その人が何の病気でどんな具合かは分からないけど
おそらく私の病気と近い
がんがどこかにあって
いま治療のどこかの段階にいること
そのような、(少なくとも身体的特徴としては)女性であること

大部屋といっても4人部屋である、しかもだいたい3人しかいない
大部屋に入りはじめてからまだ2回目である
私は自分の入院時の心持ちが変わり始めているのを感じており
その理由の一つが、個室ではなく大部屋を選択していることと関係しているような気がする

もしくは。
私の気持ちが変わり始めて
それから大部屋を選択し始めたというような気もする。

個室しかありえないと考えていた頃の私は
とにかく自分を守ろうとして、自分を守りそうなものならなんでも(※)個室に持ち込んで
自分の選んだ人とだけ会い、自分の選んだ主治医だけを頼りたがり
精神的にも、閉じこもろうとしていた

ちなみに、なんでも(※)の内容には
別で注文する入院セット(タオルを毎日替えてくれる)、セットにあるのに入院中に着る服、大きめのクッションや枕、PC2台にiPad、iphone、それを固定するアーム、本10冊以上、ぬいぐるみ3個、仕事の資料(毎回持ち込むが、メール以外の仕事をしたためしがない)、水筒3個(プラスチックのもの、魔法瓶の縦長のもの、スープジャー形式のもの)、クーラーボックスに自分専用のアイスノン数個、あとなにか忘れてるけどエトセトラ、エトセトラ。今考えると本当にすごい大荷物だった。

それらを少しずつ手放して、いまはリュック一つ(と言いたいところだが、もう一個、予備のトートバッグ)で入院できるようになった。

個室のことを考えると抑うつ感が増すのと、なにより自分の脳内で抗がん剤治療の場所という風に条件付けされてしまったのか、考えるだけで吐き気がするようになったので個室もやめた。

入院セットを注文するのもやめた。便利だが病人にお揃いの黄緑水色✖️ピンク✖️白のマドラスチェック的な作務衣上下、あれをもらうのがムカつく(どういう感情?)ようになったのと、食事用のスプーンお箸フォークセットを毎回もらうのがムカつく(どういう感情?)になったのと、なにより毎回申し込み書類を書くのが本当にイライラする(イライラしてばっかりやな)ようになり、「書類書きたくなさ」が「いつも新しいタオルくれる嬉しさ」を余裕で超えると確信した日に、入院セットはもう借りない!なしでやる!!!と決然と決めた。

このように、私は決める時はとてもはっきりと決めることができる。
(誰に言っているのか)

そして、入院セットをやめるついでに、個室もやめることにした。
個室に入るには、入院費とは別で毎日5,500円かかる。
私は最初、自分の心を守るためには個室しかない
と考えていた。
「〜しかない」と考えるときはたいがい間違っている。
けど、まあ許容できる範囲では「〜しかない」と言っている奴の願いを叶えてやっていいとも思う(その人は、人生に何度もない危機的状況にいるのだから)。
特に私のこころや身体は私にとってかけがえのないマシンである(壊れたら代わりのこころやからだはない。取り換える部品もない)。

だから不安が高くてどうしようもないときは個室に入らせてやって正解だったと思う。個室って大荷物を持ち込める以外にもいいことが色々あるのだ。

個室でいいことは以下のようなことだ。
たとえばいつでも電話できるとか、音声出して動画見られるとか、消灯後も電気つけていられるとか、ベッドが飽きたらソファでいられるとか、お医者さんがきたら壁を背に並んでけっこう長話ができることもあるとか、zoom会議や対話の会に出られて発言もできちゃうとか(大部屋では音声も画像も出せないあやしい人物になってしまう)。

また手術後は主治医が来てくれるのが、本当に助かった。
個室でしかできない話というのもある。
個室にしかない情報というのもある。

でも今は、そういうフェイズじゃなくなった。
それで、抗がん剤治療の4回目から、大部屋を選択するようにした。

長くなったけど
とにかく、大部屋に入って、私は
隣や向かいのベッドの人が、その人々の人生を背景に
病を得て、さまざまな感情の機微と紆余曲折を経て(たぶん)
いまここにいること、同じ空間の、
ゆるくカーテンで仕切られただけの場所で
治療や手術前後の時間をやりすごしていること
それは、まるで
この時間を共にやりすごしている
というような感覚であること
を感じるようになった。

そして、それを感じることが
自分の精神状態にとって、
よい作用をもたらしていると感じるようになった。

これは、私が個室に固執している頃(だじゃれになったね)
に、誰かから力説されても、ムカつくだけだったと思うんだけど(よくムカつく子でしょ)
まあ、今になって思えること、というか
やっぱり、哲学とか登山とか恋愛とおんなじで(というほど経験はないが)
考えも、自分で移動しないとわかんないんだよね。

だからさ
そうなんだ、もう一つの要点は
個室で孤独だったのは、会う人が、私以外すべての人が、現段階では病気ではない人だったというのも大きかったのかもしれない。

つまり、もう少しわかりやすく言うと
病人以外の人たちは、所詮(ごめん)
自分で山を登ってない人々
自分で恋愛をしてないが恋愛を語る人々
自分で試合に出てないがあれこれ言う人(監督・コーチ含む)
自分で・・・以下略、つまり、どれほど経験を積んだ人であっても
病人以外の人は
岡目八目の側面が抜けない人々、
そこからしか話せない人(しかしそこにいるからこそ価値がある人々)
ということを忘れてはいけない(これは、自戒も込めて)

なんである、
だから、大部屋は
不器用でも自分で山を登っている仲間がそばにいること
というとんでもない価値を秘めていたのである
後ろからも仲間は来るし
登る先にも仲間がいるし
降ってくる仲間もいるのだ

個室でいるとき、私は最後の方は、もう
自分が動物園の猿、それも
大きな柵と水の掘みたいので遠くから囲まれた猿山、
あの草があんまり生えてない禿げたような岩山に、
たった一匹で残されて右往左往している猿のような気がしていた。

看護師さんは担当制なので、どちらかというと飼育員みたいで
医師は突然、集団でやってきてだいたいはすぐ帰っていくので、まるで観光客みたいだった

それもだいたい、「元気?」とかなんとか(ほんとうは「調子はどうですか、変わりはないですか」というようなことを言う)
それが私であっても、私でなくても関係ない、一期一会の、連続性のない言葉をかけて、コールアンドレスポンスのように「はい元気です」と言わせるためだけのやりとりをして帰っていく

私はそのたびに、軽く傷ついていた。

(今思えば、主治医の回診がよかったのは、たとえ少ないやりとりでも連続性があったところだった。たとえば「今日は顔が赤いね」「声が弱っているね」というようなことを言うのだ。これには萌える。これは観光客ではなく、飼い主か、少なくとも私を身近で撫でたり餌をくれたりしたことがある人の発言なのだ。)
しかし最近は主治医とは別の先生が朝晩顔を出してくれるようになり(入院病棟の主治医というか)、短い時間であっても継続した回診をしてくれていると感じられるようになった。また薬剤師さんはボクシングのセコンドのように、一方的にではなく私にも主体性を持たせて、薬剤の調整を相談してくれる。
私も成長しているし、関係も成長するのだと感じる。”つながり、ほどけてまた結びなおす関係”が発達していっているのだ。

これを書いていて気がづいたが、大部屋に入ってから「自分は動物園にいる孤独な猿のような存在である」という感覚が薄れてきた。
もっとわかりやすく言うと、恥の感覚と孤独感が薄れてきて、自分が人間であり病人であるが恥ずべき存在ではないという風に、認知の歪みが是正されてきた。

だから、よいタイミングで個室をやめてよかった。
そういえば、個室と入院セットだけでなく、もう一つやめたものがある。
それは「入院食」である。

入院食もやめてよかったこれも記憶と吐き気がセットになってから、病院の食事がしんどくなってきてたのと、味覚障害が出てから、美味しいと思えるものが少なくなったことが理由。大部屋に入ってから、一緒になった方が「病院食止めていいんだよ、下のコンビニで好きなもの買ってきて食べればいいよ」とおしえてくれて、試してみたら快適だった。

これも動物園の猿感が薄れた一因だと思っている。これまでは、食事が与えられる時間も内容もコントロールできなかった。食事時間を待った挙句に食べにくいものが出てくるという二泊三日は、地味だが着実に積まれるストレッサーとなっていた。
(病院のご飯がまずいと言っているわけではない、味覚障害がない頃は感謝して楽しんで食べていたんです)

色々工夫して、考えて取捨選択して、なんとか抗がん剤治療を続けている。
頭では「これが最善の選択のはず」と分かっていても、おなかの底では強い抵抗を感じる治療である。葛藤をなだめながら、毎回、自分に抗がん剤治療を続けさせる方法を開発し、いまのところ続けている。
私はえらいと思う。(唐突に自分をほめてこの文章を終える。)



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