好きな〇〇

遅ればせながら明けましておめでとうございます。前回少し批判的で暗い事を書いてしまったから、今回は馬鹿馬鹿しく、しょうもない事を書いてみようと思う。そもそも私は普段大したことを考えている人間ではないので、今までの投稿は少し窮屈な文章になっていたかもしれない。しかし今回は背伸びをせずに済みそうなので、のびのびと書けるだろう。

私が今から何を書こうとしているか。わざわざ伏字にしてあるのだから食べ物とか本とかアイドルとかではないことは分かるだろう。ちなみに好きな食べ物は鴨、好きな本は終わりのない物語、好きなアイドルはいしのようこだ。どうでも良い情報はともかくとして、○○と書いている通りひらがなで二文字のものだ。もう一つヒントになる情報をとしては、ここらへんで女性読者はブラウザバックした方が良いかもしれないという懸念を私が持っているということだ。



これ以上引き延ばしても時間の無駄だろう。正解は「むね」または「ちち」である。恐らく女性読者の皆様はここでタブを閉じられることと思いますのでその前にいいねとフォローだけお願いいたします。むねについて語ると言っても巨乳こそ正義とか過激な事を言うつもりもないし、むねを揉みたいとか下品な議論に持ち込むつもりもない。ただ純粋に胸が持つ魅力について語りたいだけなのだ。つまりは、ポルノとヌードデッサンの関係と同じくらい隔たっているのである。けっしてやましい気持ちではなく、知的好奇心から胸について考えているのだということを誤解しないでいただきたい。これは別に言い訳では無く、ただ事実を述べているだけだから、述べているだけです。あんまり深く考えずに、そうなんだと思っていただきたい。

さて、人払いは済んだところで男性読者諸兄は各々自分が最高だと思うむねを想像してみてほしい。まな板、微乳、貧乳、巨乳爆乳、おわん型、釣り鐘型、ちょいたれ型、黒乳首、乳首小さめ、乳輪大きめ、非常にバリエーション豊かな胸が想像されていることだろう。申し訳ないが雄っぱいは今回の文章では触れない。雄っぱいについて触れると話がぶれてしまうからだ。もし希望者がいればそのうち触れようかと思うが、そこまで業が深い人はnoteなんて読んでないのではないだろうか。話を戻そう。諸兄の脳内に浮かんだ胸は人によって異なるだろう。その胸に出会える確率はいかほどだろうか。少なくとも理想の胸はこの世に存在するはずだ。全く同じものはなくても近しいものは必ずある。1万人の女性がいれば1万通りの胸がある。35億通りの胸があれば、一人ぐらいは理想の胸を持った女性はいるだろう。女性をただの胸として、性欲の対象としてしか見ていないという批判は止めてほしい。男が女性を語る以上、そこに性的な魅力という視点が欠けていては嘘になってしまう。女性の魅力の一面を切り取って語りたいだけなのだから邪魔しないでほしい。また脱線してしまった。理想の胸が存在するのは前提として、出会うことができるかどうかというのが問題なのだ。まず、我々が一生のうちに見ることのできる胸は何人分だろうか。親の胸とかは除外するとして年に一人見れたとしても100には届かない。ただれた生活をしていても一生のうち200人は無理だろう。35億分の200は厳しい確率だ。宝くじなんかよりもずっと低い確率だ。だからこそ、男たちは女性の胸というものに夢を抱く。理想と現実のギャップ、それでも世のどこかには理想的な胸が存在しているという事実、一人見るために懸けなければならない労力。そういったものも男が胸に夢中になる理由の一端である。

そもそも、理想の胸を語ろうとする前に胸そのものの魅力を語るべきだった。女性の胸は素晴らしいものであるという事実は自明すぎて説明するのを忘れてしまっていた。まずはその曲線美が挙げられるだろう。胸というのは大なり小なり女性的な曲線を作りだしている。その曲線の前に男は無力だ。いくら男が格好良く振舞おうとしても、胸を目の前にすると全ての余裕がはじけ飛んでしまう。それは、中年だろうが老人だろうが同じことである。赤子の頃には乳で育ち、成長した後に再び乳に回帰する。いわば男とは一生乳によって生かされる存在である。だから男が女性の胸に目線を向けてしまうのは自然の摂理である。同士諸兄は恥じることはないのだ。また、その柔らかな曲線を巡り、その人自身の個性が見えてくるというのも胸の魅力だ。豊満な胸を強調する服装をしたり、逆に隠そうとしたり、パットを入れて見栄を張ったり、胸というもの自体に頓着していなかったり。自身の胸に対しての態度の違いは上記の様に甚だしく、人物鑑定の際に非常に有用な手段になるはずだ。人物鑑定は置いておくにしても、女性の体を持つ者としてのスタンスが一目で分かってしまう。人間というのは人と話すときには猫を被るものだが、胸は胸であって胸以外の何者でもない。取り繕うことのできない自分自身なのである。胸中を推し量るという表現はこういったことから生まれたのだろう。

ここまで話しておいて、お前はどんな胸が好きなのかと問われると少し困ってしまう。私は、全てのおっぱいは等しく素晴らしいという教義の下に生きているので優劣を付けがたいのである。ただ、強いていうなれば手に収まるより少しだけ大きいサイズが好みだ。大きすぎると持て余してしまいそうな気がする。触ったことがないので想像でしかないが。そう、私はおっぱいを触ったことのない童貞である。もしかしたらおっぱいは柔らかくないんじゃないか、触った瞬間に脳がバグを起こして柔らかいと錯覚してるだけの高度な仮想現実なのではないかと考えてしまうぐらいの童貞である。しかし、童貞だからこそこの文章を書けるのではないか。一度でも触ってしまっていたらおっぱいに対して何の考察もせず、ただその柔らかさを享受するだけの人間になってしまっていたのではないだろうか。この文章を読んでいる童貞諸兄は、童貞を捨てる前に一度でいいから胸に対しての考察をしておくことをお勧めする。

胸の魅力をかいつまんで話してみた。まだまだ話したりない気もするが、おおむね満足したのでここら辺で止めておく。そういえば、昔献血のポスターで胸の大きい女の子の絵を使ったら女性蔑視だと批判された話があったが、これは全くの逆である。男たちが女性の魅力に抗えないこと、ひいては男が女性に平伏していることを象徴するポスターである。

読み返して少し怖くなってきたので追記しておく。私は男尊女卑論者とか、女性を性の道具として見る類の人間じゃない。フェミニストである。男性としての視点から女性を礼賛し、尊敬する者である。だからツイッターとかで議論を吹っかけてきたりしないでね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?