【小説】『もうすぐ、光の玉が爆ぜる』第5話

 学校の自転車置き場は日陰になっているから夏でもひんやりといている。一人、また一人と自分の自転車に乗って帰っていく。アサはそんな生徒の姿を見送りながら、ユキの赤い自転車に腰掛けていた。座席に乗っかっても、鍵はユキ本人が持っているから動かしようがない。
「ユキ、遅いよー」
 ぽつりと呟いて、ユキに連絡しようかとスマホをいじる。それから、また思いとどまってスマホの画面を暗くしてポケットにつっこむ。さっきから、この行為を一分に三回以上は繰り返していた。
 ユキは今日たまたま日直だから、アサとは自転車置き場のところで落ち合うことになっていた。教室で残っていてもよかったのだが、なんだか外に早く出たくて、教室を出てきてしまった。
 これでも覚えてなさいよ、と言われて渡されたアサ専用のテストノートは一度も開かれていない。ユキがアサのためにノートをまとめたものだが、アサはどうしても読む気がしなかった。
 だって、一人でやったって、つまんない。
 することがなくて上を見上げると、道の両側にある自転車置き場を覆う屋根の隙間から、青い空が見えた。あー、遊びたい。
 テスト勉強だって、ユキがいるから頑張れるのだ。ユキがいないとどうしてもやる気がしない。別に、やらなくても生きてけるし、と思えてしまう。
 アサはいつもそうなのだ。“今”楽しいことがアサにとっては一番大切なことで、遠い先の未来のことは、後回しだ。未来はまだ来ないのだから、来てから考えればいいと思う。これから何が起こるかなんて絶対に誰にもわからない。つまり、今どれだけ先のことを考えて努力していたって、その努力が報われるとは限らないのだ。それなら、アサは今という絶対の中で楽しくいたい。未来の為に今を犠牲にしていたら、いつか必ず後悔することがある気がする。いつか、今までやったことが無駄になってしまうことが絶対に来る気がする。そんなこと、アサは絶対にごめんだった。これでも、時間の大切さは十分に承知しているつもりだ。だから、アサはそんなふうには日々を過ごせないし、過ごそうとも思わない。
「それにしても、ユキ遅いよう」 
 思わずあくびがでそうになりながら、アサはひたすらユキの自転車に座っていた。
「あっ」
 先に気づいたのは、向こうだった。
 

 
 声がした方を振り向くと、校庭を歩いていたあの先輩と目が合った。目が合ったとたん、先輩は慌ててこちらの方に駆け寄った。
 何だ何だ。今さらユキのことで何か怒ってくるのかな。
 少しだけ身構えて体勢を整えると、先輩は思い返したようにアサの方ではなくわざわざ自転車置き場の入り口の方まで引き返していった。戦闘態勢だったのに、緊張が途切れる。本当に何なんだろう、いったい。
 すぐに先輩は自転車が両側に置いてある狭い通路を歩いてきた。どうやら、隔てがない状態でアサと向かい合いたかったらしい。アサは自転車からそっと降りた。
「あの……俺、みんなと付き合うの止めたから」
「あ、はあ、あっそうですか」
 何でアサに言うのかな。あ、ユキに言っとけってことか。
 ユキに伝えることが分かるように小さく頷く。それでも、先輩は自転車置き場からいなくなろうとしなかった。辺りをきょろきょろ見渡している。
「……? 自転車、無いんですか?」
 きちんと敬語で先輩に話しかける。さっきはユキを危ない目に合わせたから敬語じゃなかったが、本当はアサだって先輩には敬語を使うというぐらいの常識は分かっている。先輩と目が合うと、先輩は慌ててそっぽを向いた。
 失礼なやつ。もしかして、やましいことでもあんのかな。
 嘘をついているのか見極めるように、じっと先輩を見ていると、先輩が勢いよくこっちを見た。
「え」
 アサが驚いて声をもらすと、先輩はもう一度アサと目を逸らした。それから、ゆっくりと話し始める。
「あの、さ。俺の名前、分かる?」
「は? ああ、えっと住田先輩ですよね」
「違う……須藤だよ」
「あ、すいません。名前覚えるの苦手なんです」
 す、繋がりだ。おしい、アサ。
 心の中でそう呟きながら、謝罪のつもりでペコリと軽く頭を下げた。
 本当は、この学校で今のところ、ユキ以外興味が湧く人がいないから、誰の名前も完璧に覚えていなかった。だいたいは、誰がどのあだ名で呼ばれているのかは分かる。でも、クラスメイト全員の本名は言えない。
「須藤、康祐。高三」
「…………?」
 先輩は自己紹介をして黙り込んだ。
 え、だから何? 何かアサ言った方がいいの?
 通路の一番日光が射す暑い場所に先輩はじっとしていて動かない。アサはそれを日陰の涼しいところで見ていた。
 何でまだいなくならないんだろう。
 なぜか気まずい沈黙が自転車置き場に流れ始める。自転車置き場の横に広がっている校庭からは、友達とふざけながら歩いている生徒の楽しそうな笑い声が響いている。テスト三日前だから、もう部活はない。一週間前から、テスト週間として、部活は全て強制的に休みとなるのだ。
「名前、何ていうの?」
 しばらくたって、やっと先輩が一言発した。
 ユキの名前のこと? 知らなかったんだ。
「えっと……本名は水川有姫です。ア、あたしは、ユキって呼んでますけど」
 いつものくせで、自分のことをアサと呼びそうになって焦った。
 先輩を見ると、先輩は不思議そうな顔でアサを見ていた。
「そうなの? でもアサって呼ばれてるよね?」
「え、アサの名前? あ」
 言っちゃった。
 ごまかすように一瞬口をつぐんだあと、すぐに口を開ける。
「三浦安沙奈、です」
 恥ずかしさに負けて一度うつむく。それから先輩を見上げると、おかしそうに頬を緩ませていた。知らない人に、笑われるのは何とも居心地が悪い。しかも、アサ一人だけだと恥ずかしさも倍増している気がする。
「それが、何ですか?」
恥ずかしいと思っていることが分からないように、さっきと変わらない態度で接する。それでも、先輩の頬は緩んだままだった。目元も心なしか下がっている。それから、先輩は衝撃的な言葉を口にした。
「ライン、教えてくれない?」
「は」
 何言ってるんだろう、この人。
 急に、耳の辺りが冷えた気がした。自転車置き場だけ、学校から取り外されたかのように感じる。外の音が、雑音のように一瞬だけ聞こえた。
「え、誰のですか?」
「君のだよ。ラインくらいやってるよね?」
 先輩はさっそく自分の黒いスマホを取り出している。
 その様子を見たまま、アサは固まってしまった。 
 何で? 何のため?
 日陰にいて涼しいはずなのに、頭がくるくる回ってくる。ついでに何だかお腹も痛い。
「はい、スマホ出して」
 慣れた手つきでラインを開く先輩から、一歩後ずさった。
「何でですか?」
 じっと先輩を見つめる。先輩は、質問の意味がわからないような顔をしていた。
「何でって……」
「どうして、アサのラインを知る必要があるんですか?」
 日陰が、今度は急に寒く思えた。お日様が当たっている校庭に飛び出して行きたい衝動にかられる。
 先輩をにらむように見ていると、先輩はすっと視線をはずした。日向にずっといたせいか、耳が赤くなっている。
「ちょっと、気になってるから」
「は……?」 
 砂をするようにもう一歩後ずさった。足の裏と砂利がすれた音が自転車置き場に響く。
 どうしよう。わかんないよ、こういう状態、アサは、知らないよ。 
 こういうのは、ユキが言われる言葉なのに。何でアサがそんなこと言われてるの? ユキは何でいないの?
 怖くなり、全部が嫌になってきて、下をうつむいた。アサのお気に入りのスニーカーが見える。靴紐をわざと左右違う色にしたやつ。ユキと一緒に選んだ靴紐だ。
 誰か、助けて。
 ユキ。
「おおー! 康祐じゃーん」
 突然、須藤先輩が立っている細い道から大柄な先輩が現れた。アサからしてみれば、須藤先輩だって大きいのに、それよりも倍ぐらいがっしりしている。
「お前何やってんのー?」
「な、何でもねえよ!」
 須藤先輩は慌ててその友達の方に走っていった。アサはほっとして思わず自転車の座席にもたれる。
「今度、またね」
 赤い顔で先輩はそう言って、早足で今度こそ友達の方に走って行った。座席に体重をかけておいていた手が汗でずっと滑った。それくらい、手のひらに冷や汗がでていた。ぎゅっと目をつぶって汗が引くのを待つ。自転車の脇にしゃがみこんだ。立っていられなかった。
 どれくらいそうしていただろう。やっと、アサが待っていた声が耳に入った。
「遅くなってごめん、アサ! 日直帳渡さないといけないのに先生見つかんなかったのよ」
 先輩が消えていった場所から、今度はユキが現れた。アサは薄く目を開けてユキを見る。ユキの向こうには、いつもと変わらない青い空が垣間見えた。
「ユキ……」
 かぼそい声でユキの名を呼ぶ。ユキはアサの様子がおかしいことに気がついたのか、慌ててアサに合わせてしゃがみこんだ。
「どうしたの? どっか具合悪いの?」
 ひんやりとしたユキの白い手がアサのおでこを触る。気持ちがいい。
「……あのね」
「うん、だるいの?」
 心配そうにしてくれるユキの顔を見たら、だんだんと嫌な汗は引いていった。その代わり、腹部に猛烈な痛みが襲ってくる。
「お、お腹……痛いよう……」
 うぅっとうめく。少しでも痛みを取るために、しゃがんだまま丸くなった。
「えっなんで? お昼食べたあとはピンピンしてたじゃない!」
「わか、んない……でも、痛い……」
 小さくううっと唸ると、ユキが慌ててアサを立ち上がらせた。そして、アサが歩けるぎりぎりの速度で、保健室へとつれていこうとする。だだっ広い校庭をゆっくり横切ると、その途中に、外に唯一あるトイレのマークが見えた。
「ちょ、ちょっと待って」
「保健室まであと少しだから、頑張って」
「違う。そうじゃなくて……」
 握ってくれていたユキの手を離して、アサはトイレに駆け込んだ。やっと痛みの正体が分かった。普段、お腹なんて壊さないから、この痛みが何の痛みなのか忘れていた。
 しばらくしてから、トイレで手を洗って外にでると、ユキがハンカチを差し出した。
「はい」
「うわっユキ準備いいね!」
 ユキから手渡された可愛い蝶の刺繍がしてあるハンカチで手を拭いて、畳んでユキに返す。ユキは呆れたようにハンカチをカバンにしまった。
「何? 結局ただの腹痛?」
「ただのって! これ以上ないほどの痛みだったのに!」
 ユキが持っていてくれたアサのカバンを渡してもらい、もう一度二人で自転車置き場に向かう。さっきよりも、自転車が減っていた。みんなもう帰ってしまったのかもしれない。
「カバン、貸して」
「ん、はい」
 ほとんど空っぽに近いカバンをユキに渡す。ユキはそれを訝しげな顔をしながら自転車の前のかごの中に入れた。鍵をさして自転車のロックをはずす。そのまま自転車には乗らないで歩きだした。誰もいない校庭をアサとユキの二人で歩いていく。校庭は、小さく砂埃が舞っていた。
「ねえ、ちょっとなんで試験前なのにこんなにカバンが軽いのよ」
 校門を出たところでユキはアサを自転車に乗っけるために立ち止まった。一応、二人乗りは禁止だから、先生たちの見えないところでしなければならない。
「だって、全部学校に置いてきてるもん」
「置いてきちゃダメでしょう。アサ、どうやって勉強する気?」
 アサはユキの質問を無視して、後ろ向きに自転車の後ろに座った。何だか、今は立つ気がしない。
「出発オーライ!」
「……はいはい」
 ユキがゆっくりと自転車のペダルをこぎ始める。景色がどんどん遠ざかっていくのを見ながら、アサはユキの背中に自分の背中をくっつけた。そのまま、体重をかける。
「ちょっとアサ! 重いわよ」
「レディーに重いなんて。ユキ、失礼だー」
「誰がレディーよ」 
 いつもと同じ口調、同じテンポでユキと話しながら、茜色に染まっていく景色をゆっくりと眺める。道の隅にある目立たない昔からある自動販売機も、最近できた目の前に赤いポストが立っている郵便局の窓も、全て茜色に染まり始める。後ろにユキの体温を感じながら、深く息を吸って、ゆっくりと肺がからっぽになるまで吐き出してみた。キラキラした赤く染まった空気が肺まで染み渡った感じがする。
「……アサ、何かあった?」
 夕食の買い物で活気付いているスーパーの横を通りながら、ユキは優しくアサに聞いてきた。スーパーの前だから、自転車の回りには買い物袋を提げたおばさんたちがたくさんいる。そこを、アサとユキを乗っけた自転車がゆるゆると人を避けながら進んでいく。まだ空っぽな買い物袋もあれば、いっぱいになっていて、子供に手伝わせているお母さんもいる。ねぎが袋から飛び出ているから、今日はすき焼きなのかもしれない。
 そんな町の様子をぼんやりと眺めながら、ほっぺたがやけに風で冷たくなることに気づいた。触ってみると、少し濡れている。
「……別に、何もないよ。何もないけど」
「けど?」
 ユキが振り向いてこなさそうなのを確認して、小さい声で呟く。ほっぺたの涙を手で少し拭いた。もう、涙は出てきてない。いつのまにこんなに濡れていたんだろう。
「けど、さっき、一瞬嫌になった」
「嫌になったって、何が?」
「……全部。ユキもいなかったし。ユキがどっか行っちゃった感じがした」
 嫌になって、怖くなったんだ。アサだけ、一人で迷子になった気がした。先輩が話しかけてきたときも、ユキはいなくて、どうすればいいか分からなくなった。思いっきり大声で泣いて、ユキに見つけてもらいたかったけど、そんなことできる年じゃないことぐらい、分かってる。
 本当に、すごく怖かったんだ。先輩が、アサとユキの間に割り込んできて、いつも変わらなかったものを変えようとしたことが。
 アサの隣にはユキがいて、ユキの隣にはアサがいる。たったそれだけのことを変えたくないだけなのに、どうしてこんなに難しいんだろう。どうしてこんなにセカイはめまぐるしく動いていってしまうのだろう。
「……はあ? それだけ?」
 ユキは緊張が抜けたような声でアサに向かって言った。本当にそれだけだったから、小さく頷く。やっぱり、ユキにはよく分からないのかも知れない。
 しばらくそのまま赤い自転車は人が賑わう夕方の繁華街をゆったりと通る。どこかの家の夕飯の匂いをのせたぬるい風が、鼻先を幾度となくかすめていく。
「……どこも行ってないし、これからも行かないわ」
 ユキの高くて透明な力強い声が後ろから聞こえてきた。唐突だと思ったけど、ユキからしてみればきちんと考えていったのかもしれない。
「……うん、知ってる」
 不安な気持ちがユキの言葉一つでストンと心から落ちていった。頬が少し緩んで、小さく、でも深く、息を吐いて吸った。それから、口から小さく笑い声がもれた。ユキにも聞こえているかもしれない。でも、それでもいい。今はお互い顔を見合わせてないのだから、いつもより、相手に優しくなれる。
 アサは自転車の後ろに座りながら、足を少し上げて靴紐を見た。真っ赤な水玉と青い水玉の靴紐だ。アサが選んだのが、赤い方で、ユキが選んだのが青い方。二つとも、夕日の茜色に染まっていて、いつもより断然可愛く見える。
「ユキー」
「んー?」
「今度さあ、おそろいのピアス買おう」
「またおそろい?」
 呆れた声を出すって思っていたのに、ユキの声は思ったよりも優しかった。柔らかい、今の空気にすっと馴染んで溶け込んでいくような、声。夕方の茜色に染まっていくこの町にはぴったりの声だった。
「ピアスはまだおそろいの持ってないよ」
「でも、耳に穴空けちゃいけないのよ。校則で禁止されてる」
「じゃあ、大人になったらつけるために、買おうね」
 自分の片方の耳を触ってみる。未来のことなんて分からないけど、この約束は絶対だ。何がなんでも、アサはそれまでユキといよう。
 目を閉じてすうっと息を吸い込んだ。アサには、耳にもうユキとおそろいのピアスがついているような気がしている。きっと、小さいハートのピアスだ。アサがゴールドで、ユキがシルバーの小さいピアス。二人のピアスはこの夕焼けできっとキラキラ輝いている。

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