【小説】『もうすぐ、光の玉が爆ぜる』第7話

 ミルク色のお湯につかりながら、ぼんやりと天井を見上げた。真っ白い湯気で天井についている電球がぼんやりとしていて、姿を定かにしていない。何を考えるとも無くとそれを見ていると、今日の午後の怖かったことを思い出した。嫌な気分になって、お風呂に顔を半分ぐらい沈める。
 ユキに言い寄ってきた人なのに、今日ユキを待っている間にアサのラインを聞いてきた人。本当に、立ってられないほど怖くなった。セカイがアサ一人の時に音を立てて動こうとしていた。
「まだ、ちゃんとユキに言ってない……」
 いつもは、何かあったらすぐにユキに言うのに、なんとなく、言えてない。帰り道の自転車のことで安心したという理由もあるけれど、アサとしては、もう無かったことにしてしまいたかった。
「でも、ユキは知りたいかもしれないしなあ」
 天井を見上げてはあーと盛大にため息をついた。
 

 それから、湯船から出てシャワーで体を軽く流す。あんまりお風呂でもたもたしていると、ユキが遅いって怒るかもしれない。ユキは何とか豊駕島にアサを行かせようとしてくれているのだから、アサも頑張らないと、だ。悩んでたって、結局はどう事が転ぶかなんて誰にもわからないし。なるようになれ。
 お風呂から出て、青いふわふわとしたタオルを首にかける。家から持ってきたジャージでもあり、パジャマでもあるようなスウェットを来た。そのまま火照った体で台所まで向かう。
「すいませーん、牛乳もらいまーす」
 台所で食器洗いをしているユキのお母さんに声をかける。長くて横で一つにしばっている髪が上下に揺れた。
「どうぞ。勝手に取っていっていいわよ」
「じゃあ、遠慮なく」
 白い食器棚から透明なガラスのコップを一個取り出す。ユキの家の台所は白を基調としているから、アサの家と同じ作りのはずなのにそれよりも清楚に見える。それから冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出した。透明なコップに白い牛乳がとくとくと溜まっていくのを見ていると、突然ユキのお母さんが声をあげた。
「あ、ちょっと待って!」
 エプロンで手を拭いて、アサのほうに駆け寄る。そして、アサがついでいた牛乳パックをつかんだ。
「あらまあ。やっぱり」
「? 何がやっぱり?」
 ユキのお母さんはまだちょっと濡れている手で牛乳パックの上の方を指差した。アサがそこに書かれている細かい数字を覗き込む。
「あ」
 消費期限、切れてる。
「そろそろだろうと思ってたんだけど、もう過ぎちゃってたのね。よかった、確認しといて。こんなの安沙奈ちゃんに飲ませてたら美紀子に怒られるところだったわ」
 美紀子というのは、アサのお母さんの名前だ。
 ユキのお母さんはにっこり笑って、冷蔵庫の奥の方から別のボトルを取り出した。
「このオレンジジュースでもいいかしら?」
「あ、いいです。でもまだ開いてないみたい……」
 ボトルのキャップのところはしっかりと閉まったままだ。
 ユキのお母さんを見上げると、そんなの何でもないようにボトルのキャップを開けていた。
「どうせ今日の夜飲むかなって思って買って置いたものなのよ。だから安沙奈ちゃんが飲む分には全然かまわないの。はい、どうぞ。勉強頑張ってね」
 新しいコップについでもらって、ついでにあとコップ二つとオレンジジュースを持ってユキの部屋に向かう。咲姫とユキの分だ。
「両手が塞がっててドア開けらんないんだ。開けてー」
 ユキの部屋の前に来てそう言うと、ドアが開いた。ドアを開けたのは、咲姫だった。
「わあ、いっぱい。コップ持つわ」
「あ、大丈夫だよっ。もうすぐだから」
 机の上に上手にコップとジュースを置いて、一息つく。部屋の中にはユキがいなかった。
「ユキ、どこにいんの?」
 ジュースを飲みながらベッドの上に座った。オレンジ色のジュースはアサがいつも飲んでいるジュースよりも甘ったるくなくて、さっぱりしている。
「入れ替わりでお風呂に行ったみたい。廊下で会わなかった?」
 咲姫は部屋の片付けをしておいてくれたようで、夕食前はあんなに散らかっていた部屋が見違えるほど綺麗になっていた。机の上には消しカス一つ落ちていない。
「あーアサ、台所でもたもたしてたから」
「ああ、そっか。でもあの子お風呂早いから、すぐでてくると思うわ。それまで、これやっててって」
 咲姫が出したノートには、『アサ用 テスト化学まとめ』と書いてある。あんまり見る気がしなかったが、とりあえず、オレンジジュースを飲みながらぱらぱらとめくる。
「それ、何のジュース?」
「オレンジジュースだよ。咲姫ちゃんも飲む?」
 ボトルを掲げると、咲姫がカラのコップを差し出した。
「うん、ちょっとだけちょうだい」
「はーい」
 とぷとぷとコップにオレンジジュースをつぐ。すると、次の瞬間、朝の出来事が頭の中を掠めていった。
「あっ」
「え、どうかした?」
 アサのいきなりの大声に驚いたように咲姫の手が震えた。慌ててジュースが零れないようにボトルを一度机の上に置く。
「そうだ、思い出した! 朝の牛乳!」
 消費期限切れの牛乳を、朝飲んだんだ!
 咲姫は意味が分からないような顔をしている。それを横目で見て、アサはもう一度きちんと咲姫に向き合った。
「あのね、アサさ、今日の放課後にお腹壊したんだよ」
「え、大丈夫なの?」
 咲姫は黒目がちな瞳を大きく見開いて、心から心配するような顔をしたので、慌ててもう大丈夫だという趣旨を伝える。
「平気なんだけど、その原因がずっと分からなくてね。で、そういえばアサ、今日学校行く前に消費期限が切れた牛乳飲んだっていうのを今、思い出したの」
「まあ、そうだったの……でも、これは消費期限切れてないオレンジジュースだしね。いっぱい飲んでも大丈夫よ」
「そうだねえ」
 二人でオレンジジュースを飲みながらありきたりのない話を延々とおしゃべりしていた。すると、ちょうどユキが帰ってきた。
「アサ、咲姫ねえに勉強見てもらって……ないわね……」
 ユキの声が呆れたように小さくなっていった。
「そんなに残念そうにしなくても。ほら、お姉ちゃんが有姫にオレンジジュースついじゃうわよ」
 微笑みながら咲姫がユキにジュースをつぐ。アサもついでに咲姫にジュースをもう一杯ついでもらう。ユキはついでもらったジュースを一口飲んで大げさにため息をついた。いや、多分、アサから見れば大げさなだけで、ユキにしてみたら本心なのだろう。
「んん。おいしい」
 そんなユキの様子を見てもなおのんびりとオレンジジュースを飲んでいると、ユキがじっとにらむ勢いでアサを見た。
「そんなにのんびりして。アサ、豊駕島、行きたくないの?」
「い、行きたい」
「本当に? なら、もっと必死でやりなさいよ! 高校生の夏休みよ! あたしは絶対に島に行きたいの! アサと! だから勉強頑張って!」
 何かいいように丸め込まれた感じもしなくはないが、アサは黙って頷いた。ジュースを置いてユキが作ってくれたまとめノートに目を通す。アサだって豊駕島に行きたいのは変わらないのだ。
 しょうがない。ユキと一緒に島に行くっていう未来だもんね。本当は、今が一番好きだけど、ユキと一緒なら絶対楽しいことが待っているって信じられるから、ちょっとだけ我慢しよう。
 視線を感じて咲姫の方を見ると、いつもにまして、優しそうな微笑みを保っている咲姫がいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?