【小説】『うまれた』第8話
子どもがほしいと望んだのは、どちらが先だったのか。わたしもほしいと思ったし、夫も心から子どもを望んでいた。気が付けば結婚して二年が経過していた。特に子どもができないようにと気を付けていたわけではない。
そういえば、赤ちゃん、なかなか来ないね……。
そう気が付いたのが、結婚して二年目だった。仕事にのめりこんでいたせいで、そんなに月日が経っていたことに気が付かなかったのだ。
二人でもう一度よく話し合い、わたしの年齢も、もう二十七歳。三十歳目前だから、もう少し、子どもを授かれるよう、積極的にいろいろなことを気を付けて、試してみて、頑張ってみようという結論になった。
わたしは排卵検査薬というものを試すようになったし、なるべく夏でも体を冷やさないように気を付けるようになった。常備茶も麦茶はやめて、体を温めるというルイボスティーを飲むようになった。
そのおかげか、無事妊娠し、藍奈が生まれた。
妊娠がわかったとき、わたしは確かに嬉しかったはずだ。夫の喜んだ顔、わたしの父母や、義両親が嬉しそうな顔をしてくれたのも、喜びに感じた。
しかし、妊婦になってみて初めて、あれほどふくふくとして幸せを全身から発しているように見えた妊婦が、実は決して、幸福感だけを滲み出させている存在ではないということを、身をもって知った。
今まで腰痛になど悩まされたことがなかったのに、腰痛で、体を起こすのがつらくなった。足をつることも経験したことがなかったはずなのに、朝起きるたびに足がつった。
トイレも近くなり、夜ぐっすり眠れることもなくなった。
ひたすら吐いていた苦しい悪阻の時が終わったあとも、着々と大きくなるお腹や子宮のせいか、常に気持ち悪さ、圧迫感、息のしづらさがなくなることはなかった。
もともと体力があるほうではないからか、普通の速度で歩くとすぐに動悸息切れがして、体を自由に動かすこと、自分のテンポで歩くこともできなかった。
体の不調もだけれど、精神的な不調も相当だった。すぐに涙が出る。落ち込んでしまう。いつもは何ともないようなことが、引っかかり、夫に当たってしまう。
お腹が大きくなることは、赤ちゃんがすくすくと育ってくれている証なのに、足や腕、お尻にも今まで見たこともないような余分な脂肪がついていくことに、どうしようもない不安に駆られた。
当然、夫は変わらず、いや今まで以上にわたしを大切に扱ってくれた。何も不安要素はないはずだった。
いや、そうだ。夫に不安を感じていたのではなくて、自分自身に一番、動揺していたのだ。刻一刻と見たこともない体に変化していく自分の体が、怖かった。
そして、臨月に入り、破水、出産。
切迫早産や、重度悪阻など、もっと大変な妊娠期間を経て、出産する人だってたくさんいる。それに比べたら、わたしはなんと緩やかで幸せをかみしめることができる妊婦生活、マタニティライフだったのだろう、と思う。
しかし、思い返してみても、自分が、妊娠前、自分自身が思い描いていたような、こみ上げる幸福感を日々お腹が大きくなるにつれて感じている、幸せな妊婦だったとは、到底思えなかった。
赤ちゃんがほしいと思った。夫との子どもがほしいと願った。
だけど、たぶん、わたしはいい年をした大人なのに、妊娠による一つ一つの自分の変化を、母親になる喜びとして嬉々としてそのたびに味わい、受け入れることができなかったのだ。
妊娠してもギリギリまで仕事をしていた。
体調不良と精神不安に常に悩まされながら、目の前の業務をこれまで通りこなしていた。いつも通りの日常……少し自分のコンディションの悪い中での日常、をこなしていたら、気が付けば臨月前になり、産前の育休がはじまっていた。わたしはあと一か月もしないうちに母親になることになっていた。
藍奈を産み終えた瞬間、母親になったその瞬間は、なぜだか涙が止まらなかった。
生まれた藍奈を初めて抱いた感覚を、昨日のことのように思い出せる。
感動なのか、喜びなのか、全くわからない涙で頬がびしょびしょに濡れていた。
わたしの、汗でべったりの体の上にそっと置かれた藍奈。命の重さと反比例した体重の軽さに驚愕した。体全体を使って呼吸をしていた。皮膚のすぐ下に速く動き続ける熱い心臓があった。
泣き声は、そのまま命の声だった。
とにかく、守らなければならない。この子を大きくしないといけない。
藍奈を産んだ、たった一人の母親は、わたしなのだから。
藍奈が生まれた瞬間、わたしは、わたしの生きる世界、そしてわたし自身が、グルリと変化したことが生理的にわかったのかもしれない。それに衝撃を受けて、わたしはあれほど涙をとめどなく流し続けていたのかもしれない。
あの瞬間、藍奈は誕生して、わたしと同じ空気を吸い始め、わたしもまた、今までとは違う生き物として、生まれたのだ。
あの未明のとてつもなく寒い夜は、後戻りできない世界とわたし、それに、藍奈が生まれた瞬間だった。
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