【小説】『もうすぐ、光の玉が爆ぜる』第9話

 遠くで小さく音が鳴っている。だけど、耳障りな程度で気にしないようにしようと思えばできたから、アサは気にしないことにした。ふかふかで、自分の体温でちょうど良い具合に温まったところに潜りながら、少しずつ意識が遠ざかっていくのを感じ……痛い!
「……いったーい!」 
目をぎゅっと瞑りながら頭を抑えて布団の中で身もだえした。
 痛い! 頭のとこに何か固いのが当たった!
「起きろ! アサ! 何回呼んだら起きるのっ」
 ユキの怒鳴り声にようやっと身を起こす。ユキはもうすでに制服に着替え終わっていた。
 ああーそっか。今日からテスト始まるんだった。そういえば昨日の夜、朝も勉強しようっていう話になったんだ。
 まだ上手く回らない思考回路でゆっくりと昨日と今日の出来事を繋げていく。
「お……おはよおー……」
 欠伸をしながら小さく呟く。まだ上手く目を開けられない。
「ユキ、こんな眠くちゃテスト中寝ちゃうよ。だから、朝の勉強無しにしようよ……」
 何とか上半身を起こしてベッドの上で毛布を肩から掛けながら言うと、もう一度頭の上に何か落ちてきた。眠い目を擦りながら頭の上に引っかかっているものを取ると、真っ白なブラウスだった。
「早く! 着替えてっ」
「え、何で……? 着替えてから勉強するの?」
「違う! もう学校行くの! あたし朝食とってくるから着替えてといて!」
「え、もう行くの?」
 アサの質問に答えることなくユキはもう部屋から出ていた。 
 ユキのうしろ姿をぼんやりと見つめながら、パジャマを脱いでブラウスの袖を通す。
 やっと眠気が覚めてきて、ぱっちりと目を開ける。周りにはアサの制服が散乱していた。ついでに重たい教科書も布団の傍に落ちている。
 アサはゆっくりとその分厚い教科書を拾い上げた。
「……ま、まさか、ユキ、これをアサの頭に投げた……?」


「そんな重いの、いくらあたしでもアサに投げつけるわけないでしょう! 勝手に落ちたのよ! それよりさっさと着替えて!」
 いつのまに帰ってきたのか、ユキはパンと牛乳のカップを二つずつ持ってきた。真っ白なお皿に二つパンが重ねてある。
「はい、さっさと食べて」
 ユキからパンを受け取った。一番上に置いてあったそれは、アサ用だと示すようにそれだけジャムが塗ってあった。バターが程よく溶けていて、ジャムも乗っているから否応無く鼻がひくひくなる。
「はぁ、いい匂い。あ、ブルーベリーだ。おいしー」
「ああーもう。アサ昨日髪乾かしたの? 寝癖ひどいわよ。でも直してる暇ないし……しばればいいわね」
 バターだけ塗ったパンを食べながら、ユキがぶつくさと呟く。そんなユキを無視して、今度は冷たい牛乳をのどに通していく。
「はい、じゃあもう行くわよ」
 ユキは牛乳だけ一気飲みして、まだ座って食べていたアサを無理やり立たせた。
「ええ、もう? 何でそんなに急いでるの?」
 アサも慌てて飲みかけの牛乳を一気飲みする。パンを口にくわえて、玄関の方に行ってしまったユキを慌てて追いかけた。カバンがいつもよりずっしりと重い。アサのカバンまでユキが詰めてくれたらしい。
 手についていたパンのカスを払って、先に玄関の外に出て行ってしまったユキを追いかける。電気をつけるのももどかしいから、暗いままの狭い玄関でお気に入りのスニーカーに足を通す。
「あら、まだいたの」
 咲姫が自分の部屋で顔だけ出した。長くて緩やかなカーブが入った茶色い髪がさらさらと揺れるのがぼんやりと見えた。
「ん、まだいたよ……もしかして、アサたち遅いの?」
 スニーカーを履き終わり、玄関でとんとんとつま先を叩いた。咲姫は小さく欠伸をしながら頷いた。
「ええ……遅いんじゃない? いつもより三十分は遅いみたいよ」
「さ……?! 三十?!」
 一気にのんびりとした気持ちが吹っ飛んだ。
 咲姫に行ってきます、と声をかけるのも忘れて慌てて玄関の外に飛び出す。一瞬玄関の暗さと外の明るさのギャップで目がくらんだ。今日は快晴らしい。
 何度かまばたきを繰り返し、目が慣れてくるのを待つ。灰色のコンクリートでできた道と白に近い灰色で塗られてある柵が少しずつに見えてくる。いつもと変わらない、見慣れた景色だ。柵から下を見下ろすと、もうユキが赤い自転車を自転車置き場から取ってきて、待機しているのが見えた。
 うわー、ユキ、本当にごめん! 
 重たいカバンを何とか肩に引っ掛けて、階段を二三段すっ飛ばして下りる。カバンの持ち手が肩に食い込むようで痛い。だから、重いものは嫌なのだ。
「ユキ! 遅刻してるって本当?!」
 どさっとユキの自転車のかごに自分のカバンを放り込んだ。必死で走ったから、体がうっすらと汗をかいている。
 ユキはアサの質問には答えずに自転車にまたがった。アサも慌ててその後ろに立つ。少しの時間も無駄にしたくないのだろう。おしゃべりなら、自転車に乗ってからでもできる。
「乗った?」
「うん、乗った。ねえ、遅れてるの?」
「いつもよりは、ね」
 ぐいっとユキが自転車をこぎ始める。反動で、体が少し後ろに引っ張られる。子供用の広場の砂が粉のように少し舞った。風で髪がなびく。手で触って抑えると、ユキの言った通りいつもよりクセがひどいのが分かった。じめじめとした自転車置き場の日陰を通り過ぎている間は、まだ気温もそんなに上がってないせいか少し寒い。目の先で、一瞬植え込みと道路の間に雑草に紛れてちょうど良く小さな黄色い花が咲いているのが見えた。
「アサ」
「ん? あ、遅れてるってこと? ごめん、アサ気づかなくて」
「別にいいわよ。気づくことを期待してたわけじゃないし。それより、いつものルートだと車がもう走っている時間帯だから、危ないわ。どうする?」
 言われて、初めてまだ時計を確認していないことに気がつく。カーディガンのポケットから、片手だけで器用にスマホを出す。本当だ、もう車は普通に走っている時間帯だ。あの道が正規のルートなのだが、二人乗り自転車であそこを突っ走るのは、もう無理があるだろう。
 となると……ちょっと面倒だけど、あそこの道しかないよねえ。
 アサはずっと前方をにらみながら、頭の中の奥深くに潜り込んでいる、小さな頃通った道の記憶を引っ張り出した。 
「途中で自転車を隠さないといけないけど、それでいいなら、近道あるよ」
「それでいいわ。ちゃんと盗られないように隠せるなら。案内して」
 アサは小さく頷いて、次の曲がり角を左、と指示した。いつもは役に立たないような知識が生かせてちょっと嬉しい。
 ここら辺の抜け道に関しては、アサの方がユキよりも詳しい。普通の人が通るような道だったら、ユキもアサと同じくらいは知っているのだが、人間が通るような道じゃないところ……例えば、野良猫専門の道のようなものはアサの方がずっと詳しい。
「次の次でまた右曲がってー」
「ちょっと、どんどん道狭くなってるんだけど。ていうか、ここ道?!」
 家と家の間の裏道のような場所を抜けながら、ユキがハンドルを切った。目の前に、電信柱があったからだ。本当に狭い横道なのに、電信柱なんて立っていると、通るだけで一苦労する。
「道だよー。あんまり人間は通らないかもだけど」
 そもそもアサがこの道見つけたのも、白い猫を追いかけていたらたまたま見つけただけだし。だけど、そのことはユキには言わないことにする。そんなこと言ったら、絶対、人間が通る道を案内しろって言われそうだから。
 ユキは器用にハンドルを動かしながら、なるべく速度を緩めないで進んでいく。
「人間が通らない道なんて何でアサが知ってんのよ? あ、ちょっと行き止まり!」
 一本道を右に曲がると、突然目の前に灰色の壁が立ちふさがった。高さが二メートル弱ほどで、黒っぽく薄汚れた壁の下の方には一度も日に当たったことがないように濃い緑色をしたコケが覆いかぶさっている。
 アサは自転車を降りた。目の前の壁をぺたっと触る。ひんやりして、懐かしい感触がする。それから、精一杯背伸びして、壁の向こう側を覗き見た。
 うん、やっぱり、昔と変わってない。
「ユキ、自転車ここに置いてくよ」
「は? じゃあ、ここからどう行くわけ?」
「こう行くのっ」
 言いながら、壁のてっぺんに手をかけて、ぐいっと自分の体を引き上げる。制服が少しだけすれてしまった気がしたが、まあそれくらいはしょうがないだろう。
 普段、動き回っているアサにとって、これくらいなんてことない。よいしょ、と体を壁の上に持ち上げて足でまたぐ。小さい頃に比べれば、身軽さは落ちてしまったと思っていたが、案外健在らしい。壁をまたいだ状態で座りながら、じっとこちらを見ているユキを見下ろした。
「この壁乗り越えたら、学校の裏門の目の前なんだよ。ユキ、上れる?」
「…………あ、当たり前じゃない!」
 少々口ごもったが、ユキはさっそく自転車のかごからカバンを二つ降ろした。
「はい、あたし、後で上るから先に荷物そっちやって」
「はーい。じゃあ、こっちちょうだい」
 手を伸ばしてカバンを受け取る。いつもよりも何倍も重たいカバンだが、何とか壁の向こう側へと落としていく。
「カバン、汚れるわね」
「払えば多分大丈夫。下は草だし。じゃあ、先降りてるよー」
 カバンを下ろし終わって、先に壁から飛び降りる。ふにゃふにゃしていて足の下に柔らかいコケが広がっているのを感じた。上手く着地すると、そこは誰も住んでいない空き家と空き家の間にできた狭い空間だ。人一人分ほどの幅で、ここの通路を抜ければ目の前に学校の裏門が広がる。スマホで時間を確認すると、何とか試験前にトイレに行く時間はできそうだった。
 ストンと音がして振り返ると、ユキがちょうどジャンプして降りたところだった。宣言通り余裕でできたようで、スカートを軽く払って長い髪の毛を整えている。こういうユキを見ると、アサは何となく無償に嬉しくなってしまう。さすがユキだ、とか、やっぱりユキだ、とか心の中で満足げに頷く自分がいる。ずっと変わらず、アサを信じて一緒に走ってきてくれる。アサがどんなに浮くようなことを仕出かしても、ユキだけは傍で笑い飛ばしてくれる。
「ちょっと、アサ何でにやけてんのよ」
 重たいカバンを持つように差し出された。
 自然と頬が緩んでしまったらしい。アサはそのままの顔でずっしりとくるカバンを受け取った。
「えへへ。ちょっとなんか、テスト頑張る気になってきたよっ」
「……そんなの当たり前。何が何でも島に行って一緒の夏休み過ごすんだから」
 ユキが先頭になって、細い通路を抜ける。足元は所々コケが盛り上がるようにしてある。ユキの背中の向こうから眩しく白い朝の光が漏れてきた。
「あ、そうだ。今日もしかしたら中庭の掃除かもしれないから、もしそうだったらそのまま教室で待ってて」
 鍵がかかっている裏門にある柵を当たり前のように二人で飛び越えて、小走りで教室に向かう。ふり返って言ったユキの忠告に、この間のようにならないようにという思いが伝わってくる。
 こうやって、さりげなくアサのこと考えてるんだよね。
 ずいぶん前から気づいていたことだけれど、こんなふうに分かりにくい優しさを表現されるたびにそれを見抜けている自分が嬉しくなる。ちゃんと、ユキのことを分かっている証拠のはずだから。 
今は、ユキに素直に甘えておこう。
 アサは分かったことを示すようにコクンと頷いた。ユキはそれを目だけで確認してすっと前を向いた。そのまま教室まで走り続ける。走りながら、風でユキのツヤのある髪がふわりふわりと浮きが上がる。そのユキの髪が優しく軽やかに浮き上がったのを見て、なんとなく、今の風が初夏の風だったように思えた。

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