【2000字小説】『桜雪』
桜雪(さゆき)が死んだ。
さっきまで荒い息遣いだったのに、今は一瞬の呼吸音も聞こえない。僕はひたすら流れる涙を桜雪の黄色い毛に押し付けて、顔をうずめた。桜雪からは日向とほこりを合わせたような匂いと、排泄物の匂いがした。桜雪を抱いている僕のズボンやシャツは、桜雪の排泄物で汚れている。でもそんなことは全く重大なことではなかった。
「さ、ゆき……桜雪……」
喉奥から絞り出たような声は、悲しいことがあるとすぐに泣いた、小さい頃の僕と全く同じ声だった。その声に時が引きずられ、脳内に桜雪との過去がすさまじいスピードで流れ始める。
桜雪を拾ったのは僕だった。灰色の毛むくじゃらの塊を抱きあげ、電灯の下でよく見ると、柴犬の子犬ようだった。桜雪はじっと僕の目を見つめ、温かい舌で僕の手を舐めた。
僕は犬嫌いな母と喧嘩し、大泣きしながら訴えた結果、無事、桜雪を飼えることになった。初めて桜雪を風呂に入れると、灰色の毛は見違えるほど白くなり、美しく光った。ふと窓から庭を見ると、隣の公園にある桜から、花吹雪が舞い込んでいた。だから、僕はその犬を桜雪と名付けた。
成犬になった桜雪は、散歩で会う犬や人を嫌う気難しくなった。それでも、僕や家族にはお腹を出しなでてもらいたがった。桜雪と僕らは毎年花見をしに、様々な場所にでかけた。
桜雪を拾った10年後、僕は大学生になり、桜雪はだいぶおじさんになった。
大学2年の春休み。あの日、プログラマーの両親はいつも通り家で仕事を、高校生だった妹は期末試験が終わった直後で家にいた。僕は久しぶりに桜雪と昼間の散歩していた。駅近くの早桜を桜雪と見に行ったのだ。
しばらく二人で桜を眺め、そろそろ家に戻ろうかと思った、その時だった。
地面が立っていられないほど大きく揺れた。慌ててしゃがみ、熱をもった桜雪を抱きしめた。桜雪は高い声で吠え、小刻みに震えていた。揺れが止むと、ゆがんだ世界があった。折れ曲がった木、光らなくなった信号、盛り上がったコンクリートの道。
家に近づくほど、混乱した気持ちが膨れ上がった。携帯で必死に家や家族の携帯に電話をかけるが、全くつながらない。家に到着した僕は、どうして誰も電話に出ないのか、やっとわかることになる。数十分前には確かにあった家はひしゃげ、つぶれていた。
あのときから、桜雪の家族は僕だけで、僕の家族は桜雪にだけになった。
あれから、あっという間に今まで来た。ありとあらゆる書類を書き、手続きをし、僕はここ、大学にほど近いボロアパートで桜雪と暮らし始めた。ペット可で予算内のアパートはここだけで、選択肢はなかった。でも僕と桜雪はこの古いアパートが気に入っていた。特に、アパート入り口にある桜がよかった。家にいながら桜雪と毎年花見を楽しめた。
生死の縁にいる桜雪を抱きしめながら、おいていかないでくれと何度も願った。本当の一人になることが怖くて、何度も桜雪の名前を呼んだ。
でも、頑張れと声をかけることはできなかった。獣医師から、水が溜まった桜雪の肺を治療することは、年齢的に難しいと聞かされていた。
今ここで生き延びたら桜雪はもう一度発作に襲われ苦しむことになる。
それがわかっていたから名前しか呼べなかった。生きてほしいと懇願することも、今までありがとうと感謝することも、なにも決められず、ただ名前を呼び続け、白目をむく桜雪に少しでも自分の存在を感じてほしくて、桜雪をきつく抱きしめた。
「さゆき、さゆき……」
白い三角の耳もとで届くことのない声をかけながら、自分の体温が伝わるよう桜雪を抱きしめる。いつだって、抱きしめると暖かかった桜雪は、今はもう、冷たくなり始めていた。その冷たさに、唐突に彼女の冷えた指先を思い出した。
あ、と顔を上げる。自分が、最期まで桜雪のぬくもりを求めて抱いていたことを思い知る。
そっと桜雪をベッドにおろした。桜雪はわずかに目が開いているものの、穏やかな表情を浮かべていた。最期までぼくは桜雪に甘え、桜雪は僕に必要なものを与えていた。
……甘えるだけで。ごめん、桜雪。
「もう、苦しくないだろ……ありがとう、桜雪」
桜雪のお腹にまた、桜の花びらが舞い降りる。桜雪の頭をなでて、桜雪の目やにがついた目を見つめながら、スマホで電話をかける。
僕はもう1人、桜雪の死を伝えないといけない。桜雪が唯一、家族以外でお腹を見せた相手だ。彼女がここに泊まる夜、必ず桜雪は僕ではなく彼女の横で眠った。
一人暮らしだけど、犬を飼ってるいと伝えたら、写真を見たいと言ってくれた。昔拾って、飼えなかった子に似てる、会いたいと言ってくれた。この場所で僕、彼女、桜雪と並んで床に座って花見をしたとき、桜雪は桜ではなく彼女を見ていた。
それは、僕もだったけど。
さっきよりも幾分落ち着いた気持ちで、彼女が電話に出るのを待つ。僕の膝の上に桜の花びらが降りる。桜雪と一緒に、僕は彼女を待っている。
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