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【2000字小説】『蛾』

 いつからか自分は、きっと一人きりで生きることになると、理由もなく確信していた。
 一人で生きるため十代の頃から家事をこなした。稼げる業界で手に職をつけるため、そこそこ大きな企業のエンジニアを狙い就活を努力した。おかげで今、ネームバリューのある大学に入学できたわけではないのに、気兼ねなく自動販売機で飲み物が購入できて、美容院でしか購入できないシャンプーとリンスを定期購入できるくらいには稼いでいるし、待遇に不満もなく働くことができている。
 そう。不満がなかった。つまり幸せだったのだ。このまま私の生活には、なんの変化もなくてよかった。
 それなのに。
 実家のトイレから出て、洗面所に入る。棒状の検査薬の小窓にくっきりと浮かぶ線を、目に焼き付けるよう凝視してからゴミ箱に捨てた。顔をあげると鏡にうつった自分らしき女と目があう。見慣れた加工カメラの自分にはない、ほうれい線や目尻のシワにおののく。もう30歳なのだと、わかりきったことが頭をよぎる。
 大学時代、初めて恋人ができた。大学生活を送る上で恋人がいるほうが楽だと判断し、流れで付き合った結果だった。実際、レポートや試験で協力できたし、寂しさがひたりと背中に寄り添い腕を回す夜、利用し合えるのは便利だった。互いにいいように使う関係でしかなかったから、社会人になると関係は自然と消滅した。
 社会人になった私は恋人なしで孤独をやり過ごす術を身につけた。チャットアプリや、マッチングアプリ。孤独な一夜をやり過ごしたいと考える人は東京にいくらでもいた。深夜、人工的な光で染まるスマホにいくつものアイコンが浮かぶ。私を含め、画面にあるアイコンたちは、実家のある田舎町の夜を照らす電灯に集まる蛾とそっくりだった。
 濃く深い夜空で無数に光る星々は、夫婦や恋人など愛を育む人達。その下で、光り方を知らない蛾が何匹も何匹も、強い明るさを求めて電灯に集まる。ひたりと闇に抱きすくめられる前に電灯の明かりに群がり、羽が触れ合った他の蛾とその場限りの関係をもつ。そうして一晩中、孤独の闇に引きずられそうになる自分をやり過ごし、明け方、何食わぬ顔で元いた場所に戻るのだ。
 洗面所の窓からふわりと東京にはない青臭い匂いがした。五月の連休、すでに山のほうから濃い緑の匂いが風に運ばれてくる。
 ここ最近、孤独を紛らわす相手は理玖だけだった。その場限りの関係を繰り返していたのは過去の話で、去年の今ごろから理玖としかしていなかった。
 3つ年下の理玖とはオンラインゲームで知り合い、ゲームに飽きたあとも関係が続いていた。単に体の相性が良かったからと言えばそれまでだ。ただ、言い訳がましく言うと、私は理玖が私にどっぷり浸かってこない点が気に入っていた。大抵、寂しさの震えが朝焼けににじみ溶けてしまえば一夜の関係をもった男性とはすぐに離れたくなったが、理玖は違った。気恥ずかしさや後悔の気持ちがない。夜が明けたあとも自然と顔を合わせられたし、日中、用事に付き合わせることもあった。
 理玖は友人なのか、恋人なのか、セフレなのか。告白という機会はなかった。だが、海外では告白せずに恋人同士になることが当たり前らしい。だとしたら、体の関係もあって、昼間にも一緒にでかけることもある、そんな理玖と私はなんなのだろう。
 青黒いクマと複数のシミをもつ自分の顔を見つめる。いい大人がひどい顔をしている。
 理玖になんて言おう。いや、理玖に言わずにおろすのも手だ。大人の私にはその経済力と判断力がある。でもこの子は理玖の子でもあるから、理玖に伝えるべきか。
 窓の外から子供たちの純度の高い笑い声が聞こえた。その声に、理玖の背中を思い出す。夏のお盆の夜、した後、いつものように理玖はタバコを燻らせていた。ふいに子どもの声が響き、理玖が嬉しそうに微笑んだ。子ども好きなの?と聞くと、理玖ははい、好きです、面白くて、と穏やかに答えた。
 母が畳んだタオルをしまいに洗面所にきた。
「なに、そんな顔してどうしたの」
 鏡の中で母と目が合う。口籠もっていると、タオルを戸棚にしまいながら母が軽口をたたく。
「もう、せっかく帰ってきても部屋から出ないんだから。出てきたと思えばそんな暗い顔して。妊娠したとか? まさかねぇ」
 妊娠というワードに、表情を作れないまま息をつまらせる。鏡ごしに再び母と目があう。嘘をつく余裕もなく頷くと、母の目が大きく見開かれた。
 無音だったのは数秒だった。
 お腹があったかい。気づくと母のシワだらけの温かい手がお腹にあった。
「おばあちゃんよ」
 母の手を見る。お腹を見つめた母が顔を上げると、母の目は涙ぐんでいた。
「産むか産まないか、相手の人と話して決めることだけど。そんな顔しないの。妊娠ってとっても嬉しいことよ」
 母の温かい顔に、今度は私が目を見開いた。
 私と違い母は、この子の命をこの子のものとして扱っている。唐突に目の前の妙齢の女性は不妊、高齢出産を乗り越え、周囲の意見をすべて押しのけ、命がけで私を産んだ人であることを思い出す。
 小さな声で分かったと伝えると母は頷き、もう一度お腹をなでてから出て行った。
 1人で生きていくと決めた私の中に、他人がいる。もう今の私は1人ではない。
 スマホを取り出し会って話したいことがあると理玖にラインを送る。
 再び、窓から濃い緑の生命力の匂いが入ってきた。理玖が好きな夏はもうすぐそこにいる。

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