【小説】『もうすぐ、光の玉が爆ぜる』第3話

 アサは学年ごとにある掲示板の前で途方にくれていた。
「こんなたくさんなんて、聞いてないよー」
 目の前にある掲示板には、何枚もの白い紙が画鋲で留められていた。上の左右二点しか刺されていないから、廊下にある窓から風が舞い込むたびにパタパタとはためいている。呆然として立っていても時間が過ぎていくだけだ。アサは諦めて、ポケットに突っ込んできたスマホを取り出して、カチャカチャとメモし始めた。
 アサの周りには誰もいない。みんなまだお昼を食べているのかもしれない。いや、それよりも、三日前にテスト範囲を写しているやつなんて、アサぐらいなのだろう。
 誰もいない廊下で一人寂しく打ち込んでいると、「安沙奈(あさな)ちゃーん!」と声が聞こえた。
「あっ理子(りこ)ちゃん!」 
 眼鏡をかけて、スカートの長さをきっちり守っている理子がアサに向かって走ってくる。理子が走るたびに、ローファーで鳴る足音が響いている。アサは運動靴だけど、基本的には校則で決められていないからローファーをはいている子もいるのだ。
「何? どったの?」
 自分よりも幾分小さい理子を見下ろす。アサもどちらかというと小さい方だが、理子は異常といっても過言ではないほど小さい。本人の前では失礼になるから言わないが。理子はきっちり下の方で二つに縛っている髪を整えながらアサの前で止まった。
「大変なのっ」
「へえ? 何がー?」
 まだスマホに範囲を打ち込みながら理子に聞く。やっと、数学と国語を打ち終わった。まだ四科目も残っている。
「あのね、実は……あ、まだ写してないの?」
 理子はきょとんとした顔でアサを見た。
「そーなの。だから今頑張ってやってる最中」
「だったら、わたし、メールで送ってあげるよ。もう写したし」
「え、ほんと? うわー助かるよ! ありがと」
 いい加減疲れてきた親指を止めて、スマホを閉じた。そのままポケットに突っ込む。
「それで? 何が大変なの?」
「あ、そうなの! あのね、有(ゆう)姫(き)ちゃんが……」
「ユキ?」
 怪訝な顔をして理子をアサが見ると、理子は慌てているように頷いている。
「有姫ちゃんがね、今度は三年の先輩に呼び出されたの!」
 なんだ。またか。
 アサは一気に自分の興味が引いていくのが分かった。人の色恋沙汰なんてどうでもいい。ユキのなんて、もっとどうでもいい。
 ユキはその容姿から、ずいぶん前から大勢の人に好かれていた。肌の色は真っ白で滑らか。まさに雪のような白さを、ツヤを含んだ黒髪がさらに引き立たせる。それに、髪はアサと違ってまっすぐなストレートだ。手足も細くて、はたから見れば、病弱な可憐な乙女に見えるのかもしれない。でも、そんなのは見かけだけだ。本当は、病弱じゃないし可憐でもない。
 中学に入ったばかりの頃も、ユキは大勢の先輩やら何やらに告白されていた。だけど、三年生になる頃には、すっかり男子の目が覚めたようで誰もユキに近寄らなくなった。
 当たり前だ。ユキがアサを置いて誰かと付き合うなんてありえないのだから。
「でね、三年の先輩が結構モテてる先輩でね、あ、須藤先輩っていうんだけど、知ってる?」
「知らない」
 間髪いれずに理子に返事をする。どうでもいい話ほど聞いていて退屈なのはない。
「嘘! 今年の体育祭の赤組の応援団長だよっ」
 理子は熱心に須藤先輩とやらの容姿を話し始めたが、アサにはさっぱり検討がつかなかった。体育祭は、アサの唯一自慢できる運動神経をみんなに披露したために、引っ張りだこで他人のことを見る余裕はなかったのだ。
 楽しかったなー体育祭。ユキと一緒に騒げて面白かった。
 思い出すうちにぼーっとし始めた。ユキも運動神経がいいから、二人でたくさん一緒にいられた。だから、余計に楽しかった。やっぱり、頑張ってユキと一緒の高校に来てよかった。
「そいでね、その須藤先輩、浮気してたんだって! 何人もっ」
「へえ……」
 そろそろ、ユキが呼び出しから戻っているかもしれない。早く教室戻りたいなあ。そしたら、ユキのことだからさっそく試験勉強の話してくるかも。
「だから、有姫ちゃん、先輩の彼女に囲まれててやばいんだって!」
「へえ……え?」
 慌てて理子を見た。理子の眼鏡の奥にあるやたら大きい目と目が合う。
「今なんて言った?」
「え? だから、囲まれてて……」
 理子は戸惑ったようにアサを見ている。
 アサの思考が何秒か停止した。中学二年に起こったことがその何秒かで走馬灯のように駆け抜ける。
「理子ちゃん! ユキどこ?!」
「へ? あ、えぇっと、多分、体育倉庫の裏!」
 またベタなところにユキを呼び出したなあ……。
 呼び出しの場所に少し呆れながらも、体育倉庫にどうやって行けばいいのか早急に考え始める。
「ちょっと行ってくるね!」
 アサは理子を置いて駆け出した。理子も行こうとしたが、もちろんアサの足の速さについていけるはずがない。アサの隣には、ユキしか並べないのだ。そして、ユキの隣にもアサしか並べない。
 嫌な予感がアサの胸の中に広がっていく。中二のときに起こったことがそっくりそのまままた起こっているような気がしてくる。
 ユキ、今行くよ。
 心の中でそう呟いて、時間短縮のために廊下の突き当たりにある窓へ向かった。すぐ右の階段は使わないで、窓を開けて汚れた窓枠に足を掛ける。そして、目の前に濃い緑の葉に覆われている木があることを確かめた。
 これくらいなら、多分、大丈夫。
下に誰もいないことを確認して、アサは太陽がさんさんと照らしている外に飛び降りた。むっとする暑さがアサの体を包み込んで、風が制服の中を駆け巡る。後ろで理子の悲鳴が小さく響いた気がした。
 木の太い枝にうまく着地する。こんなの、小さい頃からやっているから慣れている。木を少し降りて、地面に着地できる高さになってからまた飛び降りた。
 ラッキーなことに道には誰もいなかった。スカートだから、どうしても人目を気にしてしまう。
「えっとお……体育倉庫は、どっちだ?」
 人一倍物覚えが悪いアサは、学校の地理を完璧に分かっていなかった。今どこに自分が立っているのかさえ確信が持てない。
 道の真ん中で立ち尽くす。
 なんでこういうときに誰も人がいないのかなあ。
 さっき人がいなくてラッキーだと思ったばかりなのに、もう愚痴が出てきてしまう。
「もう。しょうがないなあ。とりあえず、こっちから」
 アサはくるりと回れ右をして、走り始めた。何も考えずにレンガでできた道を人がいそうな方向へ走る。
 塩素の匂いが夏風にのって鼻につく。もうプールが始まっている学年がいるらしい。だんだんと、その匂いを嗅ぐうちにアサは思い出し始めた。あれが起こった時も、確か塩素の匂いがしていた。
ユキは中二の夏休みが終わったすぐのころ、告白された。告白されるくらい、もう慣れっこになっていたユキはいつも通り適当な理由をつけて断るつもりだった。アサも、ユキが告白されるのは慣れていたから、いつものように、ユキが呼び出しから帰ってくるのを待っていた。
 ところが、いつまでたってもユキが帰ってこない。もうお昼休みだって終わろうとしているのに、だ。授業に遅れるなんて、ユキがするはずない。ということは、何かユキにあったのだ。そのことにアサが気づいたのは、授業が始まる五分前だった。もちろん、アサにとっては授業よりもユキが大事だ。クラスの子に伝言を頼んでユキを探しに行った。廊下を走り回っているうちに、授業が始まる鐘が鳴った。それでも、アサはユキを見つけるために教室には戻らなかった。そのとき、いつもは人が少ない裏門辺りの廊下で、声が響いてきた。アサがそっちの方に進むと、ユキがいた。ユキもいたし、ユキに告白を申し出た何とか君もいた。それから、その何とか君の彼女だと言い張っている女子が六人。その六人に、ユキが責め立てられていた。
 このとき、アサは初めて同年代の女の子を怖いと思った。ユキは何も悪くないのに、噛み付かんばかりの勢いでユキを怒鳴っている。ユキは逃げようにも手をつかまれているようで逃げることができないらしい。何とか君を見ると、困った顔で笑っていた。その顔はどう見たって、俺、こんなにモテちゃっててどうしよう。俺って罪な男だよなあ、みたいな顔だった。そして、ユキはその女の子たちに顔を傷つけられそうになったのである。もちろん、アサが寸前のところで飛び出して大丈夫だった。
「ユキーもうちょっと耐えててよね。アサが着くまで」
 不安な声で呟いてみるが、まずユキを助けるためには体育倉庫がどこだか分からねばならない。ああ、道のりはまだまだ遠い。

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