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彼女は左利き

 彼女は左利きで、彼は右利きだった。
 その日、彼の隣に座った二人目の女が左利きの彼女だった。彼女は彼の右側に座った。そのときには彼女が左利きだとは気づかなかった。ペンや箸やナイフを使う場面がなかったからだ。べつの場所で二度目に会ったとき、彼女は彼の左側に座った。彼女は左手で箸を使っていた。あべこべの位置に座らなくてよかったと右利きの彼は思った。
 右利きの彼は、彼女の隣に座った九十七番目の男だった。はじめのとき、彼が右利きであるとは気づかなかったし、そんなことを気にしてもいなかった。
 はじめに出会ったとき、彼は彼女が左利きであるとは知らなかったが、何か特別なことが待ち受けていると直観した。それは予期せぬ事態だった。どちらかといえば、その場で彼女が左利きであることを先に知り、そのあとは何も特別なことが起こらないという事態のほうがありえると思えたからだ。
 しかし現実は逆だった。そのあとは何日にもわたって予期せぬこと、無色透明な時間の連続だった。待っても待っても萎んでいく気配を見せない風船を眺めて暮らしているような気分だった。それは右利きの彼が左利きになってもおかしくないほどの負荷を彼に与えた。
 二度目に会ったときに過ごした時間は、彼を押し潰さんばかりだった負荷を解消し、彼女をふわりと宙に浮くような心地にさせた。彼は彼女が左手で箸を持ち、左手で文字を書くのを見た。そのことが、なぜかものすごく特別な意味をもつことのように彼には思えた。
 その後、彼は焦燥し、干からび、熟成し、腐敗した。彼の右手は追い詰められ、失踪し、崖っぷちに立たされ、彼女の左手を求めた。彼女の左手はペンを走らせ(彼は表記され)、ナイフで切り裂き(彼の心臓は破裂し)、背中を押した(彼は突き落とされた)。
 彼は右手を左手と取り替えることを決意する。しかし、右手と左手を取り替えるということが何を意味するのかはわからない。彼女は左手は左手のままに、右手は右手のままに、勝手気ままに動いてくれるように促す。しかし勝手気ままに動いたことの責任をとれるかどうか不安になる。
 ひとまとまりの時間が過ぎたあと、彼女は左利きのまま、右利きのままの彼の隣にまた座るだろうが、間違っても彼が彼女を右隣に座らせることはしないだろうということについてまだ考えをめぐらせていない。彼は何百番目に彼女の隣に座ることになろうとも、彼女の左手を盗み見しながら、その手が勝手気ままに振る舞えるように、自分の右手にペンを握らせるだろう。
 彼女が左手で彼の右手を導いて名前を書く。書かれた名前を彼女の右手と彼の左手がなぞる。彼女が左手で時間を止める。彼が右手でその時間をそっと進める。

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