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ぎぶれな

 ほんのり色づいて、というときのほんのりがどのくらいの色づきのことであるのかこれは曖昧であるのだけど、その曖昧な記憶の湖底で眠っていた梅の花弁のようにピンク色をした午後五時三十分、外回りから職場へ帰るのもダルいしなー、汗滲むなー、ひんやりしたいわ、と思って駅裏の公園のベンチでひと休みしようかと歩いていると、当の公園からパキッとした色味の服を着たDJが出てくるのが見えた。
 何ゆえその男がDJであると判別できたかというと、彼がターンテーブルを所持していたからで、首には黒くてごついヘッドフォンを引っ掛けていた。そしてターンテーブルは片腕で脇に抱えて電源ケーブルのような細長い黒をだらんと引きずってこちらにむかってきた。その細長いだらんが気になって、あんなにして地面に擦ったらコンセントだめでしょう、だめにしてしまうでしょう、という気持ちになってちょっと彼に注意している自分を思い浮かべた。しかしそんな自分は存在しなかった。かつて存在したのかもしれない。あるいは今後、宇宙のどこかの違う宇宙で繰り返し存在し、永遠に存在しつづけるかもしれない。でもいまはここに存在しない。
 DJは真っ直ぐにおれのほうに歩いてきて、目の前で立ち止まった。そしていきなりおれの顔を凝視してこう言った。
「ねえ、あなたさん、大丈夫ですか」
 男の後ろに電源ケーブルのような細長いものが垂れ下がって延びているのが見えた。彼は黒いものと白いものしか身につけておらず、何から何までパキッとしている感じをその深い声色と峻険な眉間に漂わせて、少しの曖昧さも許しませんよという様子だった。
「あなたさん、そんなピンク色で、大丈夫ですか、どうしたのですか」と男はDJらしからぬ刑事のような口調でもう一度言った。
「え、ぼくの、何が、ピンク色ですって?」と聞き返すのが精一杯だった。相手の目が弓で射抜かれる的のように揺るぎない円形を描いていた。
「それは、あなたさん自身がいちばんに判っておられるでしょうが。しかもくすんでしまって。まるで、湖の底から拾ってきたシジミの殻の内側みたいにくすんだピンクをしてるじゃあないですか」
 きみは弓道の的のような白黒だけど。
「いいですか、この、いったいぜんたい地球全体がこのようなときに、あなたさんの午後五時半がピンク色に染まっている。このことは毒ですぞ」
 頭のおかしなやつに絡まれてしまったとは思った。思ったけど、たしかにおれはここへ来たとき、午後の五時三十分がピンク色をしているのを認識した。しかし認識しておきながら、それがいったいどういう認識に属するのか自分でもわからなかった。頭のおかしいのは自分のほうではないのか、というより、相手と自分と、どちらか一方の頭がおかしくてもう一方の頭がまともであるという考えが間違っているのであって、こういったことは白黒はっきりさせようとかいうのがそもそもだめな態度で、なんならその白黒のオセロみたいな考え方のせいで殺戮だとか支配だとか搾取だとかが発生するわけで、現実の世界にはどっちがどっちであるとはっきりさせることのできるものなど存在しない。そこの公園にいるあの鳩たちだって、公園にDJが出入りしようと、おれの午後五時三十分がピンク色をしていようと何もおかしいとは考えないにちがいない。だから鳩のようであることこそが正しい態度であり、白黒つけようとする態度が間違っているのである、とやるとまたオセロの亀裂が生じる。では鳩のようであってもいいし、白黒つけようとしてもどちらでもよくて、どちらかだけを選ぶからいけないので、というふうに余地を残そうとすると、それでは白黒つけようとする態度も許容することになり、結果的に亀裂が生じる。つまりはどのような思考をたどろうと、思考そのものが亀裂なのであって、われわれがものを論理的に考えるということは、ある一方をもう片方から分離させ、決着をつけようとすることにほかならないのだ。
 これは人間のいわばバグのようなもので、なぜそのようなバグが発生するかというと、われわれが言葉を用いて生きているからである。言葉があるせいで、われわれは思考をするのだけれど、言葉があるせいで、よくは思考できない。言葉にはいくつかの機能が認められるが、それらの機能は言葉で書かれている。どうしても鳩より人間のほうが賢いと考えてしまいがちだけど、それは賢いのではなくて、われわれは壁に言葉の書かれた四畳半かなんかのような狭苦しい部屋に閉じ込められていて、そこから世界を覗いているつもりになっているのにすぎない。言葉に囲まれているから賢いと思い込むが、鳩たちは外の広い世界を自由に動き回っているのである。
「治療しなければならないでしょう。ピンクを赤と白に分離します。でもいったいどうやって、とあなたさんはお尋ねになるでしょう。私はこう見えてDJをやっております。人間、音楽を浴びて舞踊することによってピンクを分解分離することができます。ピンクのままでは毒です。午後五時三十分というのはやはり赤、いいえ、できれば白、いや、本来であれば紅白のストライプでなければ道理が通りませんや。ワインと一緒でね、ロゼっつーのはある意味不純なんですよ。あなたさん、世の中おもしろくねーな、とか、仕事だりーな、とか、死んでやりたいな、とか、いつも思っておられるんでしょう。どこにも行き場所ないなー、ひとりだなー、何しよっかなー、そうやってふらふらしている。ふらふらしているからロゼのようなものに手を出す。そう簡単には抜け出せません。神経にきますからな、ピンクというのは。悪いことは言いません、とりたてていいことも言いませんけれど、とにかく今夜私の出演するイベントに来なされ。すぐそこですから。ググってください。アカプルコというこじんまりとした箱ですが。私の名前はいや名乗るほどの者ではありませんでした失礼」と畳みかけのブラジャーを放り出すような口調でDJは言って立ち去っていった。黒いだらんをずるずるにしながら。
 公園のベンチに腰掛けて、鳩たちを見ていた。鳩たちは一生懸命何かをしていた。べつに食べているわけでもなく、遊んでいるわけでもなさそうだったが、歩いたり立ち止まったり喉を鳴らすような声を出したりしていた。命のかぎり、「何もしない」というのをしているのだった。楽しそうでも悲しそうでもなかった。
 急に目の前にピンク色が滲んできた。先ほどよりも色濃く、くすんだ感じがなくなって鮮明さを増したようだった。鳩がフラミンゴに見えてきた。わけもなく胸が締めつけられ、鼻の奥がつんとした。視界の端のほうから何かが転がってきて足先にあたった。すいませーん、と声をあげながら小学生くらいの子どもが駆け寄ってきた。おれは足もとに転がってきた何かを、焦点の合わない目で見つめていた。子どもはおれのそばまで来ると速度を緩め、ゆっくり近づいてきてそれを拾った。すいませんと小声で言い残し、遠くのほうへ去っていった。
 永遠にピンク色に染まってしまったようだった。ピンクの中に自分も公園も何もかも消滅してしまったようだった。午後六時を過ぎてもピンクのままだった。
 事務所に戻ると河北が話しかけてきた。河北もピンク色をしていた。
「今日尾沼と飲み行くけど、行くか」
「遺憾」
「僧か」
「アカプルコに行く」
 しまった、言ってしまった。そう思って河北のほうを見ると、たいそう驚いたピンク色をしておれを見ていた。
「メキシコの」
「すぐそこのだよ」
「やってないよ。先週閉店した」
「え?」
 おれは河北に言われるままにググってみた。たしかに、ピンク色の文字で閉店の旨が記されていた。「でも、だって、しかし」
「アカプルコは自分が閉店したことにまだ気がついていないんだ。それで夜な夜な街に現れては営業を繰り返しているらしい」
「それふつうにやってるじゃん。さっきDJにも会ったし」
 おれがそう言うと河北はピンク色の顔を真っ青にして、「おい、それ、自分が生きていることにまだ気がついていない死人だぞ。見たのか」と言った。
「生きてるなら死人じゃないだろ。どっちだよ」とおれは言った。そして、生と死の違いについて考えた。死んでいたら生きていないし、生きていたら死んでいない。それで間違っていないはず。
 結局のところ、何がどうなっているのかまったくわからなかったので、河北と尾沼とおれは帰りにアカプルコの前まで確かめに行くことにした。三人で部長のものまねをしながら歩いていると、いきなり少し先の横の路地から部長が走り出てきた。なにやら後方を警戒しているそぶりで振り返ったりしながら、焦った様子で駆け去っていった。幸い、おれたちには気がつかなかったようで、でもこの距離で気がつかないとなるとよほど焦っていたらしく、何かやましいことや知られてはまずいようなことがあるのではないか。部長の飛び出してきた路地を確かめたりしたけれどもあやしいものは見つからなかった。
 道に迷った。誰も実際にアカプルコの場所をよく知らないのだった。尾沼がマップを起動して調べているあいだ、おれは河北に話しかけた。
「ようやく暗くなってきたな」
「まだ日が長いからな」
 やはりもう薄暗くなっているのだ。でもおれはピンク色のうちに滅しかけていて明るさのことがわからない。あてずっぽうに暗くなってきただろうと言ってみて、自分以外の世界がやはり暗くなっているのを知って少し寂しくなった。
「うーん、このへんであってるというか、もうほら、ここのとこなんだけどなあ、地下だからわかんないなあ、入り口ごとなくなっちゃったんじゃないかな」と尾沼が言った。
「ほらやっぱ、ないんだよ、もう」と河北が言った。
 おれはもう少し探してみるよと言ってひとりで歩きだした。先に店行っててよ、あとで合流するから。「アカプルコの幽霊に化かされるなよ」とどちらかがおれの背中にむかって言った。
 繁華街の夜は始まったばかりだというのに、シャッターを下ろした店が目立っていた。周辺をぐるりとまわってまたもとの場所に戻ってきた。どこかに見逃した階段がなかったかどうか、もう一度、反対周りに歩いてみようと思った。そして引き返したとたん、何かに躓いて均衡を崩した。自販機の二台並んで置かれたところのコンクリートの地面から、舗道のほうにむけて黒いコードのようなものが長く延びていた。よく見ると先端はコンセントになっていた。コードは自販機の裏側へ延びて、そこからさらに路上をくねりながら遠くまで続いていた。
 おれはコンセントの先端を拾い上げ、コードが延びているのをたどって歩いていった。それはどこまでも途切れることなく延びて、おれを導いていった。歩けば歩くほど、たどればたどるほど、コードも路地も延長していくようだった。何度か角を曲がり、通りを渡り、暗渠を跨いだ。誰かがむこうでコードを踏んづけていると、自分の身体に痛みが走った。コードはおれの一部であり、おれはコードの一部だった。あまりに長いので、巻いて回収しながら巻いたものを肩にかけた。肩への重みが増幅しておれはほとんど前かがみになり、黒いコードの大きな束を背負いながら歩いた。
 やがてある路地の、ほかよりも一層ピンクが色濃く、しかしほかより一層色彩が曖昧な変な区画にたどり着いた。その区画の角っちょに、地下へ降りていく狭くて愚鈍そうな汚い階段があった。黒いコードはその階段の下につづいていた。一歩階段に足を踏み入れたとたん、魚の匂いが鼻を衝いて身体が揺らいだ。なんだ、寿司でもやってるのか。階段はなかば螺旋状にカーブしながら下っていき、下りはじめの位置から二百七十度の地点で途切れ、地階に到達した。その目の前に、赤と白の縞々の看板が掲げられていて、暴風を右から浴びたみたいなカタカナの字体で〈アカプルコ〉と書いてあった。ピンクの視野の中で、ひときわパキッと主張している。何も聞こえなかった。人の気配もなかった。喉の奥がごくんと音を立てた。
 扉の横に、小さな仏像のようなものが小さいテーブルに載せられて座っており、そこから白いB5用紙が垂れ下がって「どなた様も首尾よく冥途をたどられますよう」という文言が記されていた。
 滅茶苦茶入りづらい。でもコードはこの扉の隙間をくぐって店内につづいている。まさか、このコードをたどる道程が冥途への道というわけでもあるまいな、いったいなんの真似であろう、と、そのようなことがちらとよぎった。魚臭に取り囲まれ、コンセントを握り、金玉を握り。
 いまではおれの後方に、巻いて回収しきれなくなった黒のずるずるがだらんと延びていた。だいぶ長いこと歩いて、おれはふらふらになっていた。ロゼなスパークリングワインを飲みたい気分だった。想像しただけで、ふたたび喉の奥が音を立てた。それに、早くこのコードの荷を下ろしたい。よし、いっちょ乗り込んでやろうじゃないかと思って扉に手をかけた。
 扉はまるで自動扉であるかのように、静かにすんなり開いた。電気の力というより、そこの仏像が念力を働かせでもしたんじゃないか。おれはコードをかついで中へ入っていった。
 三歩歩いたとき、地面が鳴いた。その鳴き声は、例えば求愛のニュアンスや青春の謳歌や自然界に対する讃美などを表すのではなく、ただひたすらにこの世を嘆き哀れむ悲痛な声に聞こえた。おれに踏まれて地面が泣いているのだった。地面は歩くたびに涙を流した。神経のピンクにこたえる声だった。耳を塞ぎたかったけれど、背負ったコードの束を支えているせいで手が使えなかった。
 泣きの地面を踏みしめながら奥まで進んでいくと、こちらに背を向けたスーツ姿の男がカウンター席に座って、何かはわからないが酒を飲んでいた。たぶん酒だろう、こんな場所で飲むのは。不思議なことに、彼以外に客がいない。とても静かだった。
 静かすぎて、静かであることが圧迫感に変貌し、圧迫感が下腹部を締めつけてくることによって屁が出そうな気配がし、こんな静けさの中で屁を聞かれてはまずい、そのうえ人が密ではないので匂いが漂った場合に自分がしたと知れてしまう、そのこともなんだか失礼にあたるということもあり引き返そうかと思ったが、背後で自動扉が閉まった音がした。やっぱり自動だったのか、押したり引いたりするタイプなのに。仏像の念力は店内にも充満してくるようだった。
 まだオープンしてないのかな、いや、でもあいつは酒を飲んでいる、かといっていらっしゃいませの一言も聞こえてこず、おれはどうしたらいいのかわからなかった。すると、カウンターのところに座っていた客が不意に振り向いて眼鏡を持ち上げて裸眼を晒しておれを見た。
 部長じゃん。
 あ、あの、と言いかけたのにかぶせてくるように、「いらっしゃいませ」と部長が言った。「もうじき開店時間ですよ」
 もうじきとかの話ではないんですけど、なんですか。部長は客なのか、しかし店長もしくは従業員のような口ぶりをして話しかけてくるしここで働いているのか、なにがなにやらで焦っていると、
「まあ、そこらに座りんさいな。そのうちみんな来るからさあ、DJも来るし、うちらの時代も来るし」と、こちらに落ち着きを強要してくる。
「あの……」
「はい、いらっしゃい。ドングリどうします? あ、いやドリンクどうしましょ、私、これ、河川敷の水です」部長はおれのトークを遮ってグラスを示した。
「河川敷って、ど、この……」
「福井ですよ。クククク。いやあよしてくださいよ、『河川敷の水』という銘柄の日本酒でよ。河川敷の水、と書いて、河川敷の水。クククク、クククク」
 ほらね、と言って部長は酒瓶のラベルを見せつけながらガサガサに皮の剥けた踵のような陋劣さで笑った。この笑い方は、河北と尾沼と真似をした笑い方だ。自分たちで真似ているときは笑えるのに、本物が目の前でその笑い方で笑っていても何もおもしろくない。笑いが笑いを排除している。
「それにしても、ずいぶんとまた、いろいろなものを担いでやって来ましたな。クククク、クククク」
 酔っ払っているからというわけでもなく、どうやらおれのことが本当にわからないらしい。
「いろいろってまあ、これだけですけど」と言っておれはすっかり黒のだらんから黒の大蛇に進化したコードの塊を床に放り捨てた。床がまたひと節の泣きをしゃくりあげた。えらく、また、泣きますねえ、この床は。
「鱗でできてますから。むろん魚類の」
「え、床がですか?」
「ミラーボールです」
「床は」
「木材ですね」
 部長はそう言って床ではなく天井に吊るされたミラーボールに目をやっていた。ミラーボールの鱗はまだ光に浸されていない店内で、反射すべき光線の予兆をひっそりと待ちつづけていた。すると、あいつが魚臭の正体なのだろうか。鼻腔に匂いがこびりついてしまい、どこにいてもどの方向からも魚の匂いがする。
 いつのまにか自分のために注がれていた「河川敷の水」に無意識に手を伸ばし、ひと口啜ってそれが食道を通過して胃の壁の襞に引っかかってから、あ、おれはいま酒を飲んでいるという意識が芽生えた。胃の内側が見えた。素晴らしいピンク色をしていた。
「あなた、仕事帰りですか」と部長が言った。
「ええまあ」
「不思議ですねえ。ここには仕事帰りの人しか来ない。今日が休日で、よし、今宵はいっちょ酒飲んで踊ったろうという目的ではじめからここを目指して来るやつはいないんだ。どうしてだと思いますか?」
「みんな、自粛してるんですかね」
「率直に申し上げて、あなたは勘が悪い。勘というより知性の問題ですな。論理的思考能力に欠陥がみられます。言葉の壁に囲まれて狭い世界に閉じこもり、全然外界のことがわかっちゃいない、いや、わかろうとすらしていない」
「そんな、人をつかまえていきなりおまえはバカだみたいなこと言わないでくださいよ、部長」
「いまなんと?」
「変な芝居はよしてくださいよ、ふつうに喋ってください。横井部長」
「おや。おやおやおや。そうでしたか。クククク。いやあこれは。クククク。どうも。クククク。その可能性を考えておくべきでした。これは失敬。私横井です。横井の双子の兄の。クククク」
 上司の親族兄弟関係なぞ知らん。本当に横井の双子の兄なのか。それがこんなところでこんな店を経営している? 事実だとすれば、ありえないことではないけれど、すごくありえない感がまとわりついた事実であり、紙のひっついたままカステラを口に入れたような感じがしてややザラメ。奥歯にククククいいやがる。
 もう一度横井を見る。双子にしてはそっくりすぎる。双子というよりクローン、クローンというよりドッペルゲンガー的な、そう、生き写しとはまさにこいつのことだ。どっちがどちらから生き写されているのだろう。さっき地上で慌てて走り去っていったのはこの横井か、もうひとりの横井なのか、それとも第三の?
「えっとね。ここも社内なんですよ。この〈アカプルコ〉ってあるでしょう、この店ね、ここがある場所って、あなたの勤務している会社の中なんですよ」目の前の横井がそこまで言ってからひと口河川敷を飲んだ。そして真面目な表情になり、おれの目を見てつづけた。
「それが答えね。えっと、どうしてここに仕事帰りの人しか来ないのかって話ですよ。ここがある会社の中にある店だから、です。外から遊びに来るような場所じゃない。もちろん、三ヶ月に一組くらいはいますけどね、禁止しているわけじゃないんだから。でも、人民は、ふつうそういうの、遠慮しちゃうでしょ、わざわざあんな会社の中にまで入って酒飲んだり音楽聴いて踊ったりとか、しないよね、ふつうは」
「だって、私は、ぼくは、外からぐるりと周ってここに来ましたよ、どう考えてもうちの会社とは場所が違うじゃないですか」
「いいえ。あなたの歩いてきた路上、これもあなたの会社なんですよ。この街も、そこらへんに歩いている人民たちも、みんなみんな、同じ会社です。株式会社です。シフォン主義です。飲んで踊る。素晴らしいじゃないですか。しかしその願望というのか、衝動というのか、まあひらたく欲望ですけれどもね、これ全部、そういう主義の取り決めの内側にしかないんです。逸脱きかないんすよ、クッ。そういうことであって、そういうことが、ほとんど仕事帰りの人しかここにやって来ないことに関する一連の論考の論理的帰結なのですよ」
 こいつは詐欺師ではなかろうかと思いはじめ、埒が明かないなので河川敷を啜ってみて、二啜り三啜りしてみて、もう話す気もなくなりこれを飲んだら帰ろうかと考えているところにフロアの扉が開いた。開いたと思った瞬間、気流が変化してミラーボールが少しだけ動き、かすかに光を跳ね返した気がした。開いた扉のほうを振り返ると、長いウェーブ質の髪を肋骨のへんまで踊り震わせ、身体中から魚類を無数に滴らせた女が入ってきた。入ってきて自分で扉を閉めた。
 女が一足歩くたびに、身体から赤色や青色をした魚が滴ってくる。どこからあのように湧いたようにして、あんなに魚が出てくるのかわからなくて怖い。魚籠でも背負っているのだろうか。魚たちは弓なりに胴体をしならせ、尾鰭を思いきり振るって硬いフローリングの上で跳ね回り、湿った拗音と乾いた促音を同時に連続的に発していた。女の顔は烏賊のように白く半透明で、その眼球だけが異様で弓道の的のようにくっきりと白黒の円。
 怖い、怖い、怖い。形容しがたい非比喩的な怖さだった。
 おい。と、おれは思いのほか低く響く声で言った。誰にむかって、また、何に対して「おい」という言葉なのか不明だった。
 床面を魚類はのたうち回っている。ロン毛の女がいきなり強く床を踏み鳴らした。もう一度、こんどは先ほどより少し優しげに踏み鳴らした。すると、魚どもの不規則だったのたうちが意外な周期性を帯びはじめ、女の脚の踏み鳴らしに合わせてひとつのミニマルなリズムに統合されていった。
 女の足もとから黒いだらんがずるずるに延びている。
「さ、こいつをあそこのコンセントのとこに挿してあげて」と横井がおれの運んできたコンセントの先端を持ってこちらに突きつけてきた。
 こういうところ。こういう、なんでも人にやらせて自分でできることも自力でやろうともせずに人を指示してやらせれば自分の仕事が完了すると考えており、仕事を分配することがすべてのスタッフのためにもなるのだからと、コンセントをすぐそこに挿すくらいの些細なことでも誰かにやってもらわないと気がすまなく、どんなことでも人に指図して自分は指揮監督に徹したつもりになっているが実際は面倒だからやらせているだけでそのうち自分では何もできなくなりただそこにいるだけの間抜けになり、陰で愚弄され疎まれ蔑まれるような人間性が部長にそっくりだ。というか本人じゃないのか。
「ご自分でどうぞ」とおれは言った。「帰ります。なんか怖いし」
「え、でももう間もなくだよ、DJ来るよ、咲子ちゃんも来たし」
 咲、これが咲子ちゃん。この、得体の知れない時空間から魚類をまとわりつかせ滴らせてリズムを刻んでいるこの天神みたいな女が、咲子ちゃん? 神様っぽいけどなあ。でも自分で扉を閉めてたし。
 横井はなぜか、うなずきながらおとなしくコンセントを壁のほうに挿しに行った。屈んだ後ろ姿がコビトカバみたいだった。コンセントがつながると、店内に強めの電気がじーんと通ったという感じがして、さあいよいよミラーボールが回転し、DJのお出ましであろうかという雰囲気が漂った、がしかし。
 しかし、咲子アンド無限魚類が、ちょうどクイーンのウィー・ウィル・ロック・ユーの冒頭のように大地を揺さぶるリズムを刻みながら店内の中央までたどり着き、いきなり魚籠の中から黒いコードの延びたマイクを取り出すと、怒濤のような声音で「木村」と叫んだ。
 それとも「ぎぶれな」だったかもしれない。全体に、北斎の『神奈川沖浪裏』の砕け崩れかかる大波のようなエコーがかかっていてよく聞き取れない。そういえば、髪の毛先もちりちりに散って何かをつかみにいこうとするようなあの白い波頭に見えなくもない。
 おれは一瞬のあいだ恐怖を忘れ、「木村って誰だよ」と言いたい気持ちになった。少し酒が回ってきたせいもある。横井のほうを見た。コビトカバの体勢のまま硬直している。え、なんで、という思いが強い。
 答えを見出すまもなく耳が凌辱されていく。気がつくと、咲子アンド無限魚類のリズムを土台にして、小鳥の囀りみたいな爽やかかつ滅茶苦茶な、その爽やか性ゆえに滅茶苦茶ジャスミン茶な、早朝の陽射しの透過したような音のカテキンが一気に空気を満たし音楽を、音楽そのものを軋ませえずかせせかせかさせはじめたのだ。そしてまたもや富嶽の構図、神奈川沖の波形で、
 ぎぶれな!
 が発されたのだった。
 むしろ、「ぎぅ゙、ぎぶれぃな!」という感じ。ちょっと巻き舌気味。
 その途端、店の奥にあった、それまでその存在に気づかなかった扉が開閉し、つまりいったん開いてから何事もなかったかのように再びゆっくりと閉まり、何事かが起きかけたのを期待したうちらの期待を裏切った。その間も咲子アンド無限魚類はビートを刻みつづけ、フロアの中央に立ち尽くし、正面にあるDJブースであろうと思われる教壇のような空間に視線をむけながら何かの到来を一心不乱に待っていた。ビートが一定なだけに、かえって沈黙が脈を打っているような感覚になる。そこにないはずの音が鳴動している。無音の鼓動だ。自分がいま聞いている音が、ほんとうに鳴っているのか、鳴っているとしたらどこで鳴っているのか、まるで河川敷もろとも身体がある全体的な鳴りのうちに溶解し、また鳴りそのものと化して自分自身がアカプルコの空気を振動させているような気がした。
 しばらくしてから、また奥の扉が開いた。ふつうにDJが出てきた。その出てき方があまりにもふつうだった。教員が教室の扉を開けて入ってきたみたいだった。だけどDJの背後から、どんどん小さな鳥類が飛び出してくるのがふつうではなかった。小鳥たちは赤いのと白いのがいた。彼はDJブースに立ち、そこに置いてあるマイクにむかって「こんばんは。木村です。よろしくお願いします」と言った。小鳥が無料の茶のように湧き出していた。
 DJは公園で会ったときに持っていたのと同じっぽいターンテーブルに、順番に小鳥たちを乗せて遊ばせはじめた。小鳥はその自転する狭い円形の平面を何周か歩行し、それに飽きるとひょいと飛び降りてきて魚たちののたうちに迎合した。それが繰り返された。咲子も踊っていた。
 横井はいつのまにか立ち直り、どこからか取り出した金色の扇子に小鳥を乗せてバランスを保ちながら、地につく足を片足ずつものすごい素早さで切り替えひょっとこのように舞い狂っていた。ほとんど浮いているのではないかというくらいの足さばきだった。
 咲子の白波がざぶんと砕けた。無限鳥類が空中で鳴門のように紅白の渦を巻き、すべてを焼き尽くすぎぶれなの疾雷が不意にすっぽん、ひらめ、りくがめ、魚籠から子鮫。スーパーコンピューター富嶽をぎぶれなし、解答を導き出した。咲子が全裸になっていた。
「あなたさんも、どなたさんも、踊りなすって」と、DJが教壇のマイクで説教した。おれ以外のやつは皆踊っている、というかいまや列車のように連結して踊り乱れているのだから、これはおれにむけての指示だろう。どうしようもなく河川敷で水浴び。ひたすらに、けもの偏に王。
 いまでは怖さの代わりにおっぱいを感じていた。ピンク、ピンク、ピンクです! とおれは言った。近づいてきた横井の横っ面を張った。手のひらで思い切り張ってやった。横井は倒れた。横井は死んだ。クククク。
 ピンク、ピンク、ピンクの咲子。咲子は社員? 派遣社員? むしろ『シャイニング』のような猟奇的社員、シャイニング社員。咲子が乳を揺らしながら倒れている横井に近づき、魚類を四次元魚籠からじかに、ひっくり返してじかに浴びせかけ、延々と浴びせかけ、しまいには埋もれた。横井は魚葬ということになった。それから咲子はおれのほうを見、凝視し、視姦した。
「てめえ、なに、見てん、ふらふらしてん、高崎支店。なんで殺してん。誰が殺せ言うてん。パカ」とマイク越しに、咲子はしかしマイクを顎の下まで離して乳で踊りながら言った。「てめえのようなパカがこんなにしてふらふらしっぱなしで、会社行って仕事とかして帰ってきて、公園で鳩しばいて子ども無視して、DJを怪訝に見て河北尾沼とアカプルコ検索していったいどゆうつもりなんじゃパカが、てめえのてめえ性が腐ってるからそんなピンクに染まってんじゃパカ、ろくに踊りも歌いもできんくせにピンクなことばっかしやがってもこもこ感出してそんなんがてめえの人生ジェラートピケかよ、てめえは、てめえは、てめえはピケ、ネルソン・ピケ、いつもいつまでもほどほどに人生、ほどほどの給料、ほどほどの楽しみ、ほどほどの悲しみ、ほどほどの社会保障、生命保険、ポイントカード、こいつのように死んだらほどほどでいられんのんじゃ、ほどほどの死に方なんてもんはないんです、それをてめえはほどほどの殺し方をして、もうほどほどじゃあいられんわ、おい、小鳥野郎!」と咲子がひたすらに舞いながら最後に木村のほうに視線を移した。
「おい、小鳥野郎、なんでこんなピケを連れてきた、パカたれ。ほんのりロゼ」
 木村はそれを無視してレコードを回して小鳥を遊ばせていた。おれはなんだか非常な疲れを感じて、カウンターチェアーになかば崩れるようにして腰掛けた。あらゆる音響が背後に遠のいていった。目の前に河川敷の残りがあった。それは、大河でもなく、かといって細流というわけでもなくてほどほどの太さの流れを持った河川だった。水は滞ることなく流れているように見えた。かつて自分はこの河川敷に来たことがあったという気がした。人の気配はなく、空は灰色をして冷たかった。対岸には灰色の壁をした工場のような巨大な建造物が横たわっていた。石油の匂いがした。工場のような建物の上空を鳥が飛んでいた。おれは自分の身体が冷えていくのを感じ、この静けさと冷たさのなかにいつまでも身を浸していようと思った、期限を設けずに、気のすむまで、気がすんだあとも、身体の温度をなくすために、ここに座りつづけて、この静けさのなかで、川が流れていくのを見つめて見つめる目がとれてあの鳥がついばんで川に捨ててくれることを待ちながら、際限なく、石像のように。
 川面からぬっと頭が二つ出た。
「この川の水、プレモルよりうまいよ」と河北が言った。
「魚もうまいし。な。はやくおまえも来いよ」と尾沼が言った。
 二つの頭はまた水の中へ沈んだ。おれはふたたびひとりになった。そばに黒いだらだらに巻かれたコードが置かれていた。どこからか自分で運んできたらしかった。
 突然コードが意思を持ったように蛇のように揺れながら地を這ってきて、おれの両足首に巻きついた。咄嗟のことに抗う隙もなかった。コードは足首を巻き終わると脛から膝のほうへ巻いてきた。そのまま下半身を黒くビニール質の光沢で覆いつくすと、あとはもう一気に上半身を巻き尽くし、最後まで抵抗を示した腕をも押さえ込んで残すことろ頭部だけとなった。コードの巻かれた内側は、思いのほか窮屈ではなく、ほどほどの力加減で巻いてくれたみたいだった。おれは河川敷の雑草の生えた地面に仰向けになり、世界の見納めにと目を凝らしたけれど何も見えなかった。何かが見えるとはどういうことかすら忘れてしまった。黒いコードが優しく頭部に巻きついて、おれは完全なおれになった。いまが何時だろうと、どこからもピンクが入りこんでくる隙間はなかった。これで完成したんだという実感があった。ただ、咲子の裸体を思い出すことができないのが心残りだった。
 翌日、雑居ビルの解体工事が始まった。かつて〈アカプルコ〉というこじんまりとしたフロアのあるクラブ兼バーがあった地下から、黒いコードで全身ぐるぐる巻きにされた変死体が発見された。河北と尾沼とおれは、仕事帰りの居酒屋でプレモルを飲みながら、横井部長への殺意を語り合っていた。
「それにしてもさ、あの〈アカプルコ〉って店、自分が閉店したことに気づいてなくて、夜な夜な営業してるらしいよ」
「それ、ふつうに営業してんじゃん」
 おれたちもさ、死んだことに気づいてなくて、毎日平然と生きてるだけかもな。クククク。

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