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何も書かない

 ぼくはもう何も書かない、と彼は言った。これまで書いてきたすべてや、これから書くかもしれなかったすべてと袂を分かち、今書いているものから目を背ける。彼はどこかへ出発する。出発は彼をどこかへ旅立たせる。これまで書いてきたことすべてや、これから書くかもしれなかったすべてや、今書いているものが、彼にもう書かせなくさせる。もう書かなくさせることが、彼を彼にさせる。
 
 死んでみて、と彼は書いてみる。これまで死んでみたものすべてや、これから死んでみるかもしれないすべてや、今死んでみようとしているものから顔を背け、袂を分かち、置き去りにして彼は旅立つ。旅立ちは彼をどこかへ向かわせる。死んでみたものや死んでみるものが、彼を生きさせている。生きさせることが、彼を彼にさせる。

 彼はもう書かなくなって久しい。彼は書いたことがない。彼は書こうとしたことはかつてなかった。ある日、書くことが彼を訪ねてきた。彼はドアを開けて書くことを招じ入れた。書くことは彼に挨拶をし、椅子に座り、お茶を飲んだ。彼は書くことを前にして椅子に座り、お茶を飲んだ。書くことは彼の家にしばらく滞在した。書くことは眠り、食べ、また眠った。書くことは語り、書くことは書き、書くことは歌った。ときに書くことは描き、走り、スクワットをした。何週間かが経ち、書くことは書くことをやめ、家を出ていった。

 書くことは死んだ、と彼は書かなかった。実際、書くことが死んでみたのかどうかはわからなかった。彼は書くことを探しているふりをした。通りで書くことを見かけた気がした。見かけた気は、書くことを生じさせた。書くことが彼のほうをちらっと見たような気がした。ちらっと見たような気は、彼に対して書くことを突きつけた。でも、それが本当に書くことだったのかはわからなかった。彼はもう探すふりをするのをやめた。

 彼は、死んでみようと考えている自分に、ある日出会った。ある日は、死んでみようという考えと彼との出会いの媒体だった。ある日は、かつて書くことと彼との出会いの媒体だった。ある日は媒体だった。ある日は、彼や書くことや死んでみることがすべて消えたあとも媒体だった。ある日だけはいつまでも、もう、にならなかった。ある日は、すでに、とか、これから、とかと無縁な媒体だった。ある日は書かれなかった。一度も書かれたり死んでみたりしたことがなかった。

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