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正体不明の有馬の復興者 仁西上人

1191年に仁西上人が吉野の木地師や平家の落人、遊芸の民を引き連れて有馬温泉を復興した。そして12の宿坊を建てた???・・・・

謎の人、仁西上人

有馬温泉の恩人に行基と仁西が祭られていますが、行基は日本全国で認知された僧侶です。しかし仁西の記録は有馬と吉野の川上村にしか見当たらない正体不明の復興者なのです。

1333年8月24日の日付で、吉野川上郷高原惣中注進状(木版)に、北山熊野有馬湯元の木地師の事がかかれている事から、仁西が吉野から木地師を連れて有馬を復興したという元です。

仁西が温泉寺を建てて、薬師如来の十二神将になぞらえて十二の宿坊を建てたというのは江戸時代 林羅山等が言い出した話で、まったくのウソです。

まず、有馬温泉はいつの時代も都と権力者に知られた存在です。

日本各地に平家の落人伝説があり、その多くの場所は山奥のひなびた場所で、ひっそりと生活をして来ています。有馬温泉みたいに目立つ場所で、平家の落人が集まって宿を十二軒も建てて・・・どっからお客様を呼ぶねん!源氏にバレバレになるやん!

林羅山も想像力が乏しいなあと思います。

まず1191年の時代、十二の宿坊はなかった。それは藤原定家の日記が証拠です。

では仁西は平家の落人を連れて来たか? 吉野の木地師を連れて来たか? 遊芸の民を連れて来たか?

当時、海の民や山の民と呼ばれた人々が居ました。海の民は名のように海上交通にたけており、平家はその力を利用して日宋貿易を行った。

一方、吉野の山中などでは山の民と呼ばれる人々が木コリや狩猟、川魚の漁猟を行っていた。木地師もそのうちに入る。

平家一門は壇ノ浦の戦いで、すべて滅んだかというと、そうではない。源氏がすべてかというと、義経は最終的には頼朝によって刺客された。

義経が短期間に奥羽まで逃げる事が出来たのは吉野の山の民の応援があったからこそといえるし、弁慶は山の民だったと言われている。また義経の彼女の静御前は白拍子。つまり遊芸の民と呼ばれている人々に属している。

常に時の権力者を超える存在として天皇がいて、権力者たちは天皇に認めてもらう事で権力をふるう事が出来たと言える。

誰かが「頼朝よ! 天皇が有馬の湯に行きたくなったので、山津波で埋もれている有馬を再興せよ」といったんじゃないかな?

そして復興チームを編成した・・・・ 土砂崩れの温泉地を復興するには大変な労力が必要になる。

そのトップに平家の落人のそれなりのポジションの人間を出家させて仁西と名乗らせた・・・

それは、平維盛(たいらのこれもり)ではないかと想像する。

そんな謎の仁西

仁西上人の足跡を探しに吉野川上村へ

2016年吉野の川上村に福源寺を訊ねた。

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川上村に行って思ったのはブータンみたい。
今でさえ車がなければどうするのだろうと思ってしまう。

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福源寺は、1190~1199年、仁西上人の再興という。ここと有馬にしか仁西は出てこない。

宝物庫には、昭和14年「旧国宝」に指定。昭和24年に「重要文化財」に指定変えされた木造薬師如来坐像が収蔵されている。これが有馬温泉から来たという。

「建久二年に仁西上人は、おつげにより薬師如来と共に高原の里人数名と報恩寺に入り、有馬温泉の再興に尽力した。」これが吉野川上郷高原惣中注進状(木版)に記載されている内容。

十二神将を表し、有馬十二坊を建て湯を守りしめたと伝えられており、台座に「元有馬薬師之蓮台」とある。
また、このお寺は木地師の祖として、惟喬親王の岡室御所と伝えられる。

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福源寺の山田住職に寺の言われ等をお聞きする。
仁西上人は有馬と川上村にしか名前が出て来ない。

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本堂の裏手にある薬師如来像。白川法皇の時代の薬師如来があり、その台座に有馬の温泉寺から運ばれた事が書いてある。この台座に有馬温泉の名が刻まれている。

しかし、こんな大きなもの分解できるとしても、どうやって有馬からここまで運んだのかと思う。

川上村の土産物

吉野葛入り高原の糸(たかはら)もともと仁西上人は、高原の仁西と呼ばれていた。
あ! 素麺をつくっているやん! 見つけた。
それは福源寺さんの参道の袂だ。そして道の駅で商品を見つけた。
有馬には1650年~1700年頃には有馬温泉に素麺屋という宿があった。

蜘蛛の糸って素麺だったんかな?(笑)

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