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自由なはなし。

noteを書き始める前、作成画面を開くと、「自由にお書きください」との文字が薄く現れる。
さあて、何を書こうか、とパソコンに向かいながら、自由に書くって難しいよなあ、といつも思う。人にあれこれ指図されるのは嫌いなのに、真っ白な画面を突き付けられて、何をしていいよと言われるのも嫌なんて、我儘だよなあ。

子供の頃は、自由にしていいよと言われるのが大好きだった。みんなと同じ景色を見て絵を描くよりも、音楽を聴いてそこからインスピレーションを得て画用紙一枚の上に作品を完成させなさい、という授業の方が楽しかったし、公的な賞もとった。現代文の授業でも、”小説から作者の意図を読み取りなさい”という問題が嫌いで、「この問題を作っているのは作者でないのに、勝手に解釈するな」と怒りながら解いていた。案の定間違えて、「どこの誰かわからない奴が考えた意図なんてわかるか」と開き直っていた。小説は自由に読ませてほしかったし、それは今でも変わらない。

大人になって、真っ白なキャンバスが苦手になった理由は、「他」を気にするようになったからだ。自由に書いていいよって言われても、その裏には何かしらの意図がある。仕事での自由は、子供の頃に向き合っていた真っ白な画用紙とは違うのだ。周りの意見、かかる時間、予算、様々なものを汲み取って、「最適」な進路をたどらなければアウト。たった一回の失態で、頼まれなくなってしまうことだってある、制限された自由なのだ。

noteは違う。仕事でない。だけど、子供の頃の真っ白な画用紙でもない。文章が上手くなりたい、いいねがほしい、仕事にしたい、いろんな思いがひしめき合っている。いろんな人が行きかう場所だ。
こんな世界で、真っ白な画用紙にすることができたら。あの頃みたいに自分を表現することができたら。

ああ、noteを開いたときは、こんなことを書くつもりじゃなかったのに。需要のない話を書き綴ってしまった。
だけど、ふと思う。これが、自分を表現することなのか、とも。

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