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オフフレーバー入門〜⑨フロンティア軌道理論

前回からの続き
前回は動きやすい軌道と空の電子軌道について。そして電子密度に差がある不均衡な状態が反応を促進するという内容でした。ところが実際は軌道と軌道の相互作用を考えないと説明がつかない現象があります。そこでフロンティア軌道論の登場です。
なお、フロンティア軌道理論のちゃんとした説明は私にはできませんので、あくまでもざっくりとしたイメージだけの話をさせてもらいます。誰もそこまでは期待してないとは思いますが、念のため。


フロンティア軌道論とは

原子価結合法と分子軌道法

ひとつの嘘を本当らしくするためには、いつも七つの嘘を必要とする。

マルティン・ルター

宗教改革の旗手で、実は大のビール好きとしても知られるルターの名言です。当時のカトリック教会が聖書を解釈する過程で、嘘を塗り重ねていく様子をこう表現して痛烈に批判しました。
またまた乱暴な例えをすると、原子価結合法と分子軌道法はカトリックとプロテスタントの関係に似ています。同じキリスト教を信仰しながら、視点や視座が違うので部分部分では鋭く対立する両派。同じように原子価結合法と分子軌道法も整合しない部分があります。
過去にはカトリックとプロテスタントの対立がもとで30年戦争にまで発展した歴史があります。お互い柔軟性がないと対立構造がどんどん深くなってしまいますね。科学の世界ではもちろん戦争などは起こらず、原子価結合法をベースしながらも、ところどころに分子軌道法の知見を散りばめることで補完しています。ポンチ絵にすると下の図のような感じでしょうか。

説明アプローチのイメージ

フロンティア軌道理論は、分子軌道法じゃないと説明がつかない領域に関わる、分子軌道法の中の一理論です。プロテスタントの様々な宗派に例えると、フロンティア軌道理論は分子軌道法の中の「HOMO/LUMO重視派」という感じでしょうか。

フロンティア軌道理論の概要

電子によって占有されている分子軌道のうち最もエネルギーの高い軌道をHOMO(Highest Occupied Molecular Orbital=最高被占分子軌道)といいます。対照的に、電子によって占有されていない分子軌道のうち最もエネルギーの低い軌道はLUMO(Lowest Unoccupied Molecular Orbital=最低非占分子軌道)です。
フロンティア軌道理論は、反応においては求核剤のHOMOと求電子剤のLUMOに注目する理論です。逆にいうとクーロン力は反応にはあまり関係ないということです。

HOMOとLUMO

HOMOとLUMOを理解するために、エチレンの軌道を見てみましょう。まず原子価結合法でエチレンの構造を描写すると下の図のようなモデルになると思います。

原子価結合法によるエチレンの結合イメージ

σ結合が5つとπ結合が1つで合計6つの結合が形成されているのが分かると思います。直感的に分かりやすいイメージなのですが、実際の分子軌道はこのようにはなっていません。下の図が分子軌道法によるエチレンの構造です。

分子軌道法によるエチレンの構造

炭素の価電子は4つ、それぞれsp2混成が3つとp軌道が1つで合計4つの原子軌道を作り、水素は価電子1つでs軌道を作ります。なので分子軌道の数は合計12個(炭素2個x4軌道 + 水素4個x1軌道)です。結合に関与しているのは6つの軌道ですが、同数の反結合性軌道があります。
さらに軌道番号1の最も安定な分子軌道はエチレン分子全体に広く分布した形をしています。これは、「原子が1個ずつ電子を出し合って結合を形成する」という前提に基づく原子価結合法では発想できない軌道です。他の軌道も「炭素と水素が電子を1個ずつ出し合って〜」みたいな原子間に存在しているわけではなく、分子全体に広く分布(非局在化)しています。
12個それぞれの分子軌道はエネルギーを持っていて、低いほど安定です。エネルギーが高くなればなるほど節(軌道が断絶する箇所)が多くなり、反結合性の性質を帯びます。マイナスのエネルギーを持つものは結合性軌道として結合形成に関与します。エチレンの場合は6番目の軌道が電子がいる軌道の中で最もエネルギーが高いHOMOで、7番目がLUMOとなります。

フロンティア軌道による反応とは

フロンティア軌道理論による反応イメージ

フロンティア軌道理論によると、反応は軌道が相互作用しHOMOからLUMOに電子が移動することで起こります。本質的には従来の求核剤と求電子剤の説明とあまり変わらないです。ただ、軌道は分子全体に非局在化しているので、軌道同士の相互作用も分子全体で考える必要があります。したがって考慮するのは原子価結合法的発想である電気陰性度の差による不均衡ではなく、HOMOとLUMOの相互作用であるというのがフロンティア軌道理論の肝です。相互作用できる条件は、物理的な位置・方向が合致し、反応に必要なエネルギーがあるということですね。
たとえば、ペリ環状反応やナフタレンの配向性は原子価結合法では説明できないのでフロンティア軌道理論が不可欠になっています。これらの反応については詳しく触れませんが、例えばペリ環状反応で環化反応が起こるときにシス体をとるかトランス体をとるかというようなことには、熱と光によるHOMO/LUMOの違いが影響します。ビールのオフフレーバーにも関わってくるので、光励起だけは少しだけ触れたいと思います。

光励起

光励起のイメージ

光にはエネルギーがあるので、エネルギーの入力による変化が起こります。典型的には入力されたエネルギー分だけ電子が上の軌道に上がることで吸収しようとします。このときは構成原理、パウリの排他律、フントの規則は無視され、スピンの向きもそのままに上の軌道にぴょんとジャンプすることで吸収されます。熱エネルギーが入力されると電子対ごと移動するので、光励起は反応の仕組みが違うというわけです。
光励起では不対電子が2個できますが、この状態をビラジカルといいます。電子が動くのでHOMOもLUMOもそれに応じてずれ上がっていきます。この状態はとても不安定なので極めて短期間しか維持されず、光を放出して基底状態に戻るか、他の分子と反応することで解消されます。
この光励起による反応としては、ビールの世界では日光臭の原因となるMBT(3-methyl-2-butene-1-thiol)の生成が該当します。

次回へと続く

今回はフロンティア軌道理論について、その入口部分だけを説明しました。実際は様々な複雑な計算がありますが、めちゃくちゃかいつまんでいうとエネルギーが近い軌道同士が相互作用するということです。また反応にはエネルギーが関与することも改めて理解できたと思います。そもそも電子が安定化したいというのは、エネルギーの低いところに行きたいということです。エネルギーの低い状態になるために、わざわざ元素を組み替えて新たな結合を形成するのが化学反応です。というわけで、次回はエネルギーについてです。

お読みくださりありがとうございます。この記事を読んで面白かったと思った方、なんだか喉が乾いてビールが飲みたくなった方、よろしけばこちらへどうぞ。

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リブランディング後のラベルイメージ


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