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全盛期を過ぎてからの生き方、愛し方。

人の魅力や能力には、どうしても<全盛期>というものがある。
それを過ぎても愛される人というのは、「老いてなお」という要素よりも、「老いてこそ」というものを持っているんだと思う。

「老いてなお」、一般的にはこっちを自然と目指す人の方が多い。
ある程度歳をとってくるとわかることだが、周りの美人だなぁという人達のほとんどは、昔からメイクが上手だった人だ。
若さで乗り切ってた部分は、熟練技術なしでは隠しきれない。
男性だってそうだろう。
不健康や不摂生を放っておいた人に、「老いてなお」な人は見当たらない。

これからの人生を「老いてなお」のままで行こうと決めるのならば、それなりのメンテナンスと技術で「維持する」努力が必要だ。
それでも下降線をたどっていく、この後の長い人生
どう切り抜けるのか想像すると、これは途方もないことだと思う。

ずいぶん前のことだが、立川談志師匠の高座にはまった時期がある。
もう晩年で、生で聴ける機会は少なかった。
当時『談志百席』という音源が出ていて、それを入門に60代、50代…と遡り、20代の若い落語まで聴いた。
軽いトランス状態に陥るジャズドラムのようなリズムとその色っぽい声質に、酔ったようにハマった。
はぁ〜、私は生まれる時代を間違えた、と本気で思ったっけ。

70代の家元に対する評価、というものを私の口からは恐れ多くて書けないが、病気もされていたし、実際に観に行けば喉の調子も口の回り方も壮年期とは違っていた。
技術的な面では全盛期を過ぎていた、ということくらいは書いてもいいだろう。

その頃の家元はご自身の終活のつもりか、毎年根津神社のツツジが満開になる頃に、自宅マンション前で私物のガレージセールを開いていた。
書きながら思う。
やっぱりあのイベントはありえないよね。
落語、いや芸能のレジェンドが自宅のまん前で私物を売るなんて。

もちろんお弟子さんは横にいるものの警備というほどでもないので、変な奴が絡んできたら一体どうするのだろう、と私なんかは心配になったのだが、いや、きっと平気なのだ。
なぜなら家元には、その頭と言葉がある。
誰かに守ってもらう必要がない、そんな家元のガレージセールは、生を晒した壮大すぎるジョークだった

その姿を見たからか、やっぱり全盛期を過ぎてても、私は家元の老いた落語がとても好きだった。
徹底的に自由で、そして「死ぬよ」といつも口にしていたその姿は「老いてこそ」そのものだった。

人が全盛期を過ぎていく姿を、ずっと見つめるのは辛いことだ。
それともどこかで、辛さのスイッチが切れるのだろうか。
ぽっ、と家元の最後の落語に飛び込んだ私には、継続して愛していた人の想いをはかることができない。

実は、なのだが、私はしばらくここ最近のASKAの新曲が聴けなかった
怖かったのだ。
10代の頃に聴いていた懐かしいASKAのまま、「老いてなお」な声や姿でいて欲しい、という欲望が胸の内にあった。
一方では冷静な頭で、いやきっと人並み以上に浮き沈みの練りこまれた人生を歩んできてる人だから、それなりに色々変わってるだろう、という予測もついて、なかなか心が追いつかなかった。

ASKAの魅力は、このnoteで散々歌詞が良い、と主張してきて何を今さらだが、やっぱり声である。
あの声を一度聴いてしまうと、他の声では満足できない感覚が、脳みその一部分に作られてしまうのだ。

きっと私は臆病だったのだろう。
自分の愛したものが壊れるのを、もうこの世に存在しないですよ、と突きつけられる瞬間を怖れて、現実に触れられなかったのだ。

結局のところ、私は昔のASKAをガラスケースに閉じ込めたオブジェクトの一つとして愛していたのかもしれない


そんなある時、ラジオで彼の新曲を聴いた。
「一度きりの笑顔」というタイトルだった。
私の知っている歌い方とは様子が違ったけれど、「ああ、そうか…こうなったんだ…」と、心の糸がフワッと緩まったような不思議な感動を覚えた。
若い時には歌えない。
そんな凄みとも言えるようなものが隠された、美しい曲だった。

あの窓の向こうには 語らない
人生があった
 
いつの頃か僕は
その窓を 見守るようになっていた
 
まだ僕に家族があったときに
あなたはもうひとりだった
 
油絵のように 動かずに
ただあなたは ただ外を見てた
 
あなたのその目には
何が映っていたのか
ビビアン・ウェイの人
 

雨の街 LONDONは悲しい雨
切ない雨 メロディを包む雨
 
きっとあの窓のカーテンは
人知れずいつか閉ざされる
 
そんなあなたが一度だけ
笑顔を見せたことがある
 
二人の幼子が
あなたの元へ駆け寄って手をふった
あなたがはじめて
あなたが微笑んだ
 
今日 あの日のあなたを
ふと思い出した ふと思い出した
 
一度きりの笑顔を 一度きりの笑顔を
はるか昨日のこと


散文詩が先にあった曲なのだという。
そしてASKA自身がロンドンで家族を連れて暮らしていた時に、経験したことなのだという。
語るように歌われるこの曲は、自由な旋律と間合いをもって歌われ、それは若い頃に比べれば確かに艶めきや滑らかさは失われたが、逆に人間的な魅力の増してきた彼の今の声に、とても合っている。

この詩は、絵画か写真に似ている。
投げかけてくるような意味はないが、豊かな時間と、言葉になりきれぬ感情が包まれた、一枚の景色だ。

若い人が雰囲気だけで写真を撮ると、痛い目にあいがちだ。
「ただ何となく好きな風景」を価値あるものと思えるのは若者の特権だが、最悪、わかるのは自分だけ、と考えた方が賢明に違いない。

だから薄ぼんやりした写真のような歌を、若いシンガーが歌うことは難しい

だが、歳を経た人は強い。
聴く側が想像力を動員し、文脈を付け加えながら受け取るようになる。
声や情景に、人生の意味を付け足すようになる。

若いASKAが歌っても、美しいがどこか様にならなかっただろう。
長い年月に色々なことがあって、それこそ近しい人達にすら一区切りをつけ、たった一人で立っていこうと決めた男の歌うこの歌は、何度聴いても胸に沁みる。

時の流れ、生きることと終えること。
そして途中で出会ったもののうち、人は何を胸に抱き、時おり思い出すのだろうか。
どんな情景を抱いて、生きていくのだろうか。
この声で歌われると、一人の男の人生への想像が、どこまでも膨らんでいく

文脈、そして人生を、深い芳香のように含ませる。
それが「老いてこそ」できることなのかもしれない。
この曲を聴いて、そんなことを思った。
こんな曲を歌える還暦のシンガーが他にいるのか、とも思った。

一リスナーとして図々しいことこの上ないが、今のASKAをようやく聴く準備ができた、と腰を上げた時の話である。

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