小説の中で踊る人①―『憤死』(綿矢りさ)
私は、小説の中で踊る人が好きだ。
ダンサーやバレリーナに関する話が好きという意味ではない。
(そういう話は読んだことが無い。読んだらとても好きになるかもしれないけれど。)
一般人が、自分の思うがままに踊り出すシーンが好きなのだ。
踊る人が出てくる大好きな作品について、2つの記事で語りたい。
『憤死』は、『憤死』(綿矢りさ・著/2013年/河出書房新社)に掲載されている短編小説だ。
私は綿矢さんの小説がとても好きで、新刊が出ると必ず読んでいる。
中でも、猪突猛進の精神で突き進む女性が出てくるところが好きだ。読んでいてとにかく清々しい気分になることが多い。
この『憤死』では、まさに猪突猛進代表のような佳穂という女性が出てくる。
この佳穂については、友人である女性(主人公)の目線で終始語られる。
主人公いわく「身の程知らずで現実を見ないところが長所」で、「女版の太ったスネ夫」が佳穂である。
ひどい言われようだが、主人公の目線を通して知る彼女は、たしかに内弁慶で高慢な女性である。
そのような振る舞いを受け取る主人公は、彼女に対して恨みや怒りを持っている様子はなく、ただ淡々と佳穂を観察して楽しんでいる。
そんな佳穂が、小学校高学年の時に踊る場面。それこそが、私の大好きな踊る場面だ。
主人公だけに披露する一人ミュージカルにもぐっとくるが、同級生との間に踏んだり蹴ったりな出来事があった後、主人公を連れて向かったウサギ小屋の前で行う舞いがとにかく最高である。
生命の宿ったミニマムな仁王像は、小さな手でげんこつを作り、天を仰いで宙を殴りまくったあと、近くのくすのきに頭突きをくり返した。
(中略)
髪をふり乱して飼育小屋の金網を揺すり、奇声をあげながらバケツを蹴飛ばして、うさぎに多大なストレスを与えている彼女を、私は少し離れたところで見て、ほれぼれしていた。
(中略)
ぶっとい手足が舞うたび、辺りの時空がゆがむ。なかなか見事なオリジナルの怒りのダンスだ。
この光景を想像すると、私は主人公と同じようにほれぼれしてしまう。
主人公は「もしいま彼女の姿をクラスメイトが見たら、腹をよじって笑うだろうが、そのくせ彼女の非凡な怒りの才能を見逃す」と感じながら、「幼児性と狂気の狭間で怒りのダンスを踊るには、私たちは成長し過ぎていた」と考える。
私が踊る人に強く惹かれるのは、むき出しの感情が視覚化されているからだ。
例えば子どもが泣き叫んでいるのを見た時、私が真っ先に感じるのは「あんなに感情をむき出しにできて、羨ましいな。そしてそれを引かずに受け止めてもらえて」ということである。
大人になればなるほど、こと身体表現としての怒りや悲しみといった感情の表出を抑えるようになってしまったけれど、本当は素直になれる人が羨ましいのだと思う。
素直になれない理由を考えていくと、悲しいことに、私は「引かれたくない」というのが最たる理由であるようだ。「人の目なんて気にしない」と決意しながら、やはり強く縛られているなと気づいてしまう。
そして、もしも世の中の大多数が感情をむき出しにするのが当然、さらにそれを受け止めるのが当然という世界だったら、私は感情を抑えないんだろうなと思う。
「世の中の多数派の意見なんて気にしない」と決意しながら、やはり普通に埋没したいんだろうなとも実感してしまう。
その後、何年か経ってから、佳穂と主人公は再開を果たす。
佳穂の怒りのエネルギーは、まったく衰えていない。
主人公曰く「相手に怒りをぶつけることもできるのに、なにもかも焼きつくす光線をまっすぐ自分に向ける、奥ゆかしさとプライドの高さ」を持ち続けているのが、佳穂である。
主人公と同じように、私はそういう人物の圧倒的なエネルギーに対し、恐怖心や少しの蔑みの気持ちとともに、それを上回る畏怖のような相反する気持ちを抱く。
振付の決まっているかっこよかったり美しかったりするダンスと、怒りなどの感情にまかせて出てきたダンスでは、それを行う理由に決定的な違いがある。
後者には「自分をよく見せる」という外側の要因が根こそぎ抜けている。(こう考えると、即興ダンスのようなものはどっちだろうと新たな疑問が。
「型」を前提にしたものか、そうでないものかの違いだろうか。「型」がある前提で、感情にまかせて出てきたものは、外側を気にしていなかったとしても、様になるゆえ、結果的には見栄えの良さが前面に表れる。)
後者のような、徹底的に自分だけを見つめている純度の高さ、その表現方法の一つが、踊ることなんだなと『憤死』を読んで考えた。
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