見出し画像

小説の中で踊る人②―『ダンス』(青山七恵)

前回に引き続き、踊る人についての小説を語りたい。

 『ダンス』は、『風』(青山七恵・著/2014年/河出書房新社)に掲載されている短編小説である。
「踊る」というテーマがたまらないのはもちろんのこと、淡々とした中にユーモアを感じる文章で書かれていて、とにかく好みな短編である。
加えていろいろな解釈ができるような作品になっており、生きづらい全ての人に寄り添ってくれるような面もある。
私にとって、とても大切な作品として君臨し続けている。

この話は、以下の言葉から始まる。

優子は踊らない子どもだった。大人になっても踊らなかった。人生の長い時間を踊らないで過ごした。

そう、この話は「踊らない話」なのだ。
幼稚園のお遊戯会も、中学時代に林間学校も、大学時代の友人と遊びにいった香港のナイトクラブでも、彼女は踊らない。
踊らない優子に対して、周囲の反応は様々だ。
優子を踊る人の間に隠してうまくごまかそうとする人がいれば、なぜ踊らないのかと怒る人もいる。踊らないということには、繊細な、ごく個人的な、精神的な問題が含まれているのだと感じとった人もいる。
しかしどんな反応も、優子には決して深く刺さらない。

そもそも、なぜ優子は踊らないのか。
理由について、この小説内では書かれていない。
私は、この「書かれていない」というところに強烈に惹かれた。
書かれていない、というよりは書けないのだと思った。なぜなら、それは優子本人にもわからないことだからだ。
例えば高所恐怖症の人がいた場合、その人は無理に高い所へ連れていかれるだろうか、もしくは高い所へ登らないことを怒られるだろうか。
そして、高い所が恐い理由をいちいち推測されるだろうか。
この答えは、否である。なぜならば、高い所へ恐怖を感じる人がいるという事実は、一般的に理解されていることだからである。
人にはなかなか理解してもらえない、一般的に誰もが受け入れているものに対する拒絶反応。そういうものを持っている人の周囲の風当たりの強さという、それまでぼんやりと気づいていたけれど言語化できていなかった部分を掬いとってくれたのが『ダンス』である。

そしてこの作品は、自分でも理由がわからないけれど、したくてもできないことを指摘された時の反応がとても素晴らしい。
自分でも理由がわからないから反論もできないし、一般の尺度を持ってこられても、自分でも不思議に思う人がいることは十分わかっていて、それでもできないのですがという困惑。
そういうものが、怒るでもなく、ただ何となくぼんやりしてしまう様子から滲み出ている。

実は、そんな優子には「踊る」という感覚を掴みかける瞬間が2回登場する。
その時の優子は、切実かつ高揚感に満ち溢れていて、輝きかけている。
そんな様子に、こちらまで嬉しくなってしまうほどだ。
しかし、優子にとってはとても重要な瞬間だったとしても、周囲には残念ながらその重要さなどが伝わっていない様子なのが、本当にもどかしい。
人が何かを克服する瞬間というのは、誰もが応援をし、感動を生むものなのではないか、とそれまでは思っていた。
しかし、人が感動しているものは克服した事実ではなく、その克服の過程におけるドラマ性なのかもしれない。
人に理解されないものは、そもそもそのドラマ性さえも周囲には伝わりにくいのだという事実に気づいて愕然としてしまった。
このような八方塞がりの状態を掬うのは、きっと「共感はできないけれど、理解はできる」と思ってくれるものの存在だろう。
そしてそういう存在に、まさに『ダンス』のような作品がなり得るのでは、と考えた。

前回と今回の記事で、2つの作品で踊る人について考えてみたけれど、書かなかった他の作品も含め、「踊る」という行為には、いろいろな意味が内包されやすい。
けれどどんな場合にも、何らかの解放や発露のような意味合いが必ず含まれている気がしている。だからこそ、私は踊る人が出てくると無条件に清々しい気分になれるのだろう。

余談だが、(最近はそうでもないという話もあるけれど)「インド映画は、必ず踊るシーンがある」と聞いたことがある。
映画でも清々しい気分になれるのであれば、とてもいいストレス発散方法になるな。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?