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抗えないとしても―『さざなみのよる』(木皿泉)

『さざなみのよる』は、主人公・小国ナスミが病気となり、43歳で亡くなるところから始まる連作短編集である。
家族や会社の同僚、そして一度会っただけの人など、ナスミと関わった様々な人が登場する。
ナスミを中心に「何かをもらい、何かをあげた」人々の繋がり(何かとは何かであって、ものとは限らない)や、ナスミの死から「生死というものを周囲がどう捉えていくか」が軸となった物語である。
その中で、いのちがやどるということに対して、印象的な言葉がある。

やどっていたものが去ってゆく。それは、誰のせいでもないように思えた。ただやってきて、去ってゆく。

大事な人の死を想像した時、正直にいうと今の私は、怖くて悲しくて寂しくてたまらないという感情でいっぱいになってしまう。
大事に過ごしてきた時間の感触が、時の流れで塗り替えられていくような未来を想像してしまい、時の流れにも抵抗したい気持ちがある。
この物語のような、諸行無常の境地にはまだまだ立てそうにない。
しかしこの物語を読んだことで、このような感情に陥った時でも、消えない何かが残り続けてくれるはずだという確信を持てたのがとても嬉しかった。
そう思わせてくれるぐらい『さざなみのよる』には、あたたかくて輝かしいものがたくさんつまっていた。

まず、何といっても主人公のナスミがとにかくあたたかくて輝いている。
家族などの身近な人はもちろんのこと、ほんの一時関わった人も、ナスミのさりげない一言や行動で人生が好転していく。
思えば最近の私は、魅力的な主人公が出てくる物語を立て続けに読んでいる。それも、わかりやすく明るくて前向きで元気な人というわけではなく、とことん自然体でそのことが魅力に繋がっているような人ばかりである。
ナスミをはじめとした自然体で生きている魅力の正体って何だろうと考えると、やはり一番の理由は「比較ではないところで感情が動いているから」だと思う。
そのような人は、他人の感情を「嫉み」や「普通」で歪めることがなく、ただそのまま感じ取ることができるのだろう。
だから、悲しそうな人がいればそれを取り去るような対応をして、嬉しそうな人がいれば一緒に喜ぶように、まっすぐに届いたものをまっすぐに返せるのだ。このように自然体で生きている人が、やはり一番強くて優しいなと思う。死や時の流れさえも、自然なものとして受け止める部分も含め、ナスミのような生き様には本当に憧れる。

そして、木皿さんの書くあたたかくて輝いているものは、人以外にもたくさんやどっている。
マンガの音読、ダイヤでつくる柱の瞳、フィルムケースに入った歯。
どれも、とても独特なもので、かつとても大切なものだ。人が人を思う真摯さによって生まれたものばかりである。
関係者だけが大事にしているお守りのようなものが存在する光景は、とても神聖で、泣きたくなるぐらいあたたかな場所である。
何らかのものに対し、その機能以上の意味を付与して愛でていくという行為は、歴史上繰り返されてきていて、とても美しくて救われる行為だなと改めて感じた。

さらに、そういったあたたかいものにあふれた『さざなみのよる』に出てくる人たちの感受性の鋭さも、とても心地よい。
「ナスミのさりげない一言や行動で人生が好転していく」と先述したが、前提として、この物語に出てくる人たちの感受性の鋭さが、好転の大きな要因となっていると思う。
ものをていねいに扱う相手の姿を見て、自分が同じように大事にされてきたことに気づいたり、歌を聞いたことで相手に未来があることを想像したり。見逃して通りすぎてもおかしくない一瞬でふと立ち止まることによって、人は新しい道を発見する。
人生は何が起こるかわからないのが当たり前で、本当にちょっとしたことで、良い方向にも悪い方向にも変わってしまうことがある。
不可避な状況も多いけれど、そんな中でも悪い方向に引きずられないように足掻く方法の一つが、自分にとって本当に大切なものを見極めながら、感受性を磨き続けることなのではと思う。

死、時の流れ、その他諸々の抗えないものに対してどう対峙していくか。今まで考えないようにしていたことに対して、そろそろ向き合ってみる頃かもしれない。
今年の状況下も相まってそう考え始めている私に、『さざなみのよる』は、ひとつの理想的な世界を見せてくれた。
ここから考え続けていくことで、私なりの答えを見つけていきたい。

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