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【掌編】ドーナツホールを等分するための必要十分条件

手先は器用な方だった。

ドーナツを欠けることなくふたつに分けたり、ハイソフトの包み紙で鶴を折ったり、ひとさし指に刺さったトゲを針の先で掘り出したり。
ただ人より細かい作業に向いている、それだけのことであり、だれかの得になりはしない。そう思っていたところ、しかしちがうと後にわかった。

なんや女の子みたい。

初めての相手はバイト先の常連客で、事が終わってまどろみの中、執拗に手技をほめられた。経験や知識もなく、思うとおりに動いただけであったので、色濃い反応に戸惑った。器用なんです、と先ほどの例を挙げると、女の子やん、と可笑しそうに。まだ何者にもなれていない学生の時分、十は歳上であったろう大人が満足げであるさまに、戸惑いは失せ、舞いあがった。

社会に出るまでに、幾人かから同じ評価を受けた。

繊細。的確。こまやか。

じきにそれは単なる手先の話ではなく、声の上ずり、表情のゆがみ、身体のふるえ、それらの機微に気がつき、順応するところを含めてのものとわかった。それを思うと、昼夜問わず、それまで何気なく行なっていた自分の振る舞いが、気配り目配りの上に成り立つものであることが自覚された。意識的にそれらを使いこなすようになると、触覚以外に聴覚、視覚で、人をよろこばせることができるようになった。

自分の言葉や仕草で、目前の相手の心がうるおう。その瞬間を経験するたび、皮膚の内側から輪郭をなぞられるような、ふしぎな快感があった。ここにいる、ここにいていい。そううなずかれているようでもあり、それはとても心地がよかった。

しかし世に出てみれば、そんなものは毛ほどの役にも立たなかった。

就職した会社では、特色ある個性を出せず、コロナ禍の煽りを受け退職に追い込まれた。いや、そもそも自分の個性など、求められてはいなかった。必要とされていたのは小手先の器用さではなく、課題を打ち破る豪快さ、さらにはその豪快さが勝ち得る実数だった。「うちみたいな中小は、とりあえずは結果出さんと」。退職勧奨のとき言われ、言われたその場ですら、言った上司のネクタイの曲がりが気になって仕方なく、あぁこういうところかもな、と申し出を受け入れた。

わずかな退職金とじきに入るであろう手当を頼りに、新たな職を探した。世の自粛モードはなかなか下火にならず、なんの実績もない自分を受け入れる懐を備えた企業はなかった。

居場所をなくし。
居場所をさがして。

銀行のカード越し、日に日に目減りしていく預金残高のイメージに耐えきれず、金を借りた。借りた金を返すため、水商売に身を置いた。就活を続けることを前提に、余計なしがらみも持たぬよう、出張型サービスのセラピストを選んだ。

千客万来とはいかないが、始めて数ヶ月で安定した数の指名が入るようになった。いわゆるリピーターも何人かおり、中には疑似恋愛を通り越した感情を抱かれる例もあった。

恋心には質感がある。

ざらざらしたやつ。
やわらかいやつ。
とげとげしたやつ。
ぱきっとしたやつ。

こちら側が相手そのものに対していだく心情とは別に、恋心そのものへの好みというものもまた、存在する。

ユヅルさんが『宇治』に対しいだいているそれは、心地のよいものだった。

多分まともにさわれば、べとべとしている。当人もそれに気づいていて、そんなものでこちらを汚すわけにはいかないから、と、さらさらしたものでそいつを包んでいる。紙ナプキンで包まれた揚げ菓子のごとく。指先に伝わる柔さや湿り気を、こちらも感じとっていないかのようなふりで、差し出された言葉を仕草を想いをほおばることができる。

別にいいのに。
汚れるとしても、それは自分ではなく『宇治』なのに。
そんなことわかっているはずなのに。

ほんまのやつやんか。

出鱈目でもよい予約の名が、空欄でも受け付けるカルテの年齢が、経験がないというカウンセリング時の告白が、すべて真実であると確信した初回の日から、危うい気はしていた。この人の中に自分の形をしたものが入り込み、それは自分の身体が離れた後も残り、育っていくことになるのでは、という予感があった。予感は当たり、眼差しから、声音から、台詞から、沈黙から、この人の内側にいる『宇治』の存在とそれに対する熱が、回を重ねるごとに肥大していくのを感じた。

互いに仮面を被った疑似恋愛ではない。ユヅルさんは生身のまま『宇治』に恋をしていた。自分が恋をしているのは『宇治』であることをわきまえつつ、それがどこにもいない人間であることを理解しつつ、想いを募らせていた。その粘着質な思慕が『宇治』を通り越し、『宇治』の演者であるこの身に触れぬよう、細心の注意を払っている気配があった。

現実に存在する感情。
存在するがゆえに、現実に干渉しうる感情。
干渉しうるがゆえに、厳粛に規制された感情。
ほんまのやつ。

居場所をなくし、居場所をさがしてここにたどり着いた自分にとって、正直なところ、それは救いだった。かつて役に立たなかった、必要とされなかった、いや、今もなお役に立たず、必要とされていない個性が生み出した『宇治』という存在。それが誰かの胸の真ん中に居座り、その一挙手一投足がその誰かの胸を騒がせている。長い間満たされなかった心の穴に、温かいものが注がれる気がした。

ようやく就職先が見つかってからも、辞めることを先延ばしにした。一応の期限を設けはしつつ、「軌道に乗るまで」と理由をつけセラピストを続けていたのは、その温かさが自分に必要であると自覚していたからだった。

だけど、違った。

「宇治」

その日、施術の際にユヅルさんは初めて『宇治』の名を呼んだ。こともあろうかプライベート、それも仕事の場で遭遇したその夜のことだった。
DMで直接予約がきたときは、安堵と緊張があった。『宇治』でない、生身の自分に触れてなお、指名を続けてくれたことに対する歓びと、そこまで強い感情を自分に向けている彼女から、法外ななにかを求められるのでは、という恐れ。

お門違いだった。ユヅルさんが欲しているのは、ユヅルさんを満たしているのは、自分ではなく『宇治』であること、『宇治』という磨りガラスをとおしておぼろげに映っている自分の像であることを、その漏れ出る声から知った。

話さなくていいことを、その場で話した。会社をクビになったこと。みじめな思いをしたこと。本業の合間にこの仕事をしている、という話が嘘であり、今の会社に入ったのはつい最近であるということ。

話した瞬間、ひどい自己嫌悪に陥った。

この人が求めている『宇治』という偶像。そこに自分の実態を被せ、同化しようとしている。この人が愛している『宇治』に、自分はなろうとしている。

愛されようとしている。

百歩ゆずって、自分もまたユヅルさんを愛しているなら、愛せるならばそれでもいい。しかし、ただこの人が自分の心に注ぐものを、注いでいたと勘違いしていたその温もりを、享受しつづけたい一心での自己開示だった。

「ユヅルさん、おれね。セラピスト春で辞めんねん」

その場で決めた。辞めなくては、と思った。ユヅルさんの心が瓦解していく音を聞きながら、あたかも前々から決めていたことのようにそれを話した。先ほどの身勝手な自己開示と辻褄を合わせるように、『宇治』というものは自分の一部であり、それを気づかせてくれたのはユヅルさんである、などともっともらしいことを思いつきで並べて。並べながら、それが自分の本心であることに勘づき、すぐにその思いに蓋をした。あくまで「素性がバレても誠実に顧客に接するセラピスト」として、この人を、自分を、この世界に閉じ込めておこうと必死だった。

「大丈夫。辞めるまで、まだ二ヶ月あるから」

ユヅルさんひとりに言い聞かせるには、明らかに余る熱を滲ませ、言った。寒々しい部屋で、その熱は身を温めることなく、すぐに霧散した。

「引き継ぎとかあるん?」

バスローブに身を包んだ格好で、ハーシーさんが言った。「引き継ぎ、って?」「セラピストの」「ないよ、そんなん」笑いながら、ココアの入ったマグカップを差し出す。「えーじゃあ、今後だれ指名したらええの」「知らん。自分で探して」。

サイトからの予約を打ち切ってからも、直で指名をもらっている顧客は数人いた。ハーシーさんもその一人で、この日が最後の施術日だった。歳は四十代後半か。自分との会話や触れ合いを、単純なる娯楽として楽しんでくれる相手で、余計な情の香りがなく、こちらも気が楽だった。どことなく、自分にとって初めての女性と雰囲気が似ていた。

机の上には、ハーシーさんが仕事帰り、ここに来るまでに買ってきたクリスピー・クリームの箱。「お夜食」。半開きだった箱の口に指が突っ込まれ、一番オーソドックスなきつね色のドーナツが引き出される。

「あんた指名してから、どんくらい経つ?」
「どうやろ。一年くらい」
「長いなぁ。いやまぁ、楽しかったわ」
「おれもです」

互いにマグカップに口をつけながら、低いテーブルを挟んで座る。ドーナツがあるならコーヒーがよいのでは、と思ったが、眠れんようになるから、とココアを所望された。おそらくここに泊まるのだろう。

「うち以外に長いお客、どんくらいおんの?」
「えぇっ、そんなん言わへんよ」
「ききたい。他におるかだけ」
「まぁ、おるかな」
「ふうん」紙ナプキンで挟んだドーナツを両手で持つ。「ホンマに好きになられたり、好きになったりとかはあるん?」
「何それ。言わん言わん」
「言わん、てことはあるんや」

言葉に詰まる。詰まったことに、内心で舌打ちする。ガードが甘い。最後だから、と気を抜いていた。

ふと、ユヅルさんのことを思い出した。あの日以来、音沙汰はない。あれきりということはないだろうが、あってあと一回だろうな、という気はしていた。

その一回があったとき、自分はどのように振る舞うのだろうか。今のように気を抜いた、あるいは気を張った結果として、不要なことを口走ってしまったりするのだろうか。それとも、きちんとセラピストとしてお別れをするのか。それができるか。

できたとして。
それは正しいことなのだろうか。

「そういう関係になったことはありません」
「ふうん」
「でもまぁ人と人やから、ビジネスからはみ出した感情が生まれることも、ないことはない」
「わぁ、赤裸々」
「ごめんなさい」
「それはやっぱり、愛情? 好きっちゅうこと?」
「どうなんやろ」もう今日の分の代金はもらえないな。思いながら、話を続ける。「たとえば、愛されたい、っていうのは愛なんやろか」
「えーわからん。いきなりテツガクせんといて」

テツガクて。吹き出す。むずかしいこと言わんといてよぉ、ハーシーさんはマグカップとドーナツをテーブルに置く。

「愛とか言ったもん勝ちやんか。せやから、愛って言いたかったら、もう愛でええんちゃう。それ」

数秒、何も答えられず、間が空いた。

「え、深」
「ホンマ? 採用?」
「最有力仮説や」
「わぁ、すごい」手を合わせるハーシーさん。「ほな付き合ったりも、ありえるんちゃうん」
「いや、やっぱりそんなんはないです。どこまで行っても、その人と接しているのはセラピストとしてのおれやし」

さすがに開き直りすぎか、と思ったが、「ふうむ」とハーシーさんは何食わぬ顔。再びきつね色のリングを持ち上げ、はむりと齧る。リングをリングたらしめる穴の部分は侵食しない。はむりはむり、と箇所を変え、齧りあとを残すけれど、穴は穴のまま。そのスタイルで、リングの端を一周する。

「独特」
「せやろ」舌を出し、口の端をなめるハーシーさん。「最後やさかい、ちょっと講義したろ、思て」
「講義?」
「これ、宇治ね」

全方位から攻撃を受け体積を減らしたドーナツ。それをおれの前に差し出して、ハーシーさんは言う。

「え、どゆこと」
「実体のない丸い穴を、甘くておいしい生地で囲って。うちらお客は、その可食部のとこだけはむはむいただく」
「うわーテツガクやん」
「あんた、自分のこと空っぽや思うてるやろ」

反応が遅れる。何か受け答えを、と思うにかぶせて、ハーシーさんが言う。

「一年、こんだけ指名しとったらわかるわ。あんた、自分のことがそんなに好きとちゃう。中身がない、空っぽな人間やと思うてる」
「うわ、なにその占い師モード」

必死に『宇治』として、正確にはハーシーさんと相対するときの『宇治』として応じるけれど、内心ひどく動揺した。いつもと違うハーシーさんと発せられる言葉のするどさに、仕事中であることを忘れ、仮面がはがれそうになる。

「うちが思うに、誰でもそうやで」

穴を穴として保ったままのドーナツを、なおおれの目前にかかげ、ハーシーさんは続ける。

「ほんまもんの自分に、実体なんかあらへんよ。人に喰わせる部分をつくろって初めて、形ができる。食べてもらえる。認めてもらえる」

愛してもらえる。

「……むずいなぁ」

わからないふりをして、時間を稼いだ。なんの時間稼ぎかはわからなかったが、とにかく思いついたことを口にする。

「なんやろ。結局、どんだけ外身を味わってもろても、空っぽの穴である自分そのものを分け与えることはでけへんから、人は誰しも孤独、みたいな話?」
「ちゃうちゃう。むしろ逆や」
「逆?」

ハーシーさんは、そこでようやくドーナツを下ろし、それをちぎって二等分した。

「空っぽは分けられる。外身があるから、形があるから、分けられるねん」

テーブルに敷かれた油がにじむ紙ナプキンの上、歯型でぼろぼろのドーナツが、いや、ドーナツだった物体が、脱ぎ捨てられたスニーカーみたく乱雑に並ぶ。汚らしい絵面の中、先ほどまでドーナツホールを囲っていたふたつの曲線が、唯一秩序だったカーブを描いている。そのふたつに分かれた半円の弧が、かつてそれが模っていた空虚の存在を示している。

「いや、むずいて」『宇治』で答える。
「もうちょい。もうちょいやからがんばり」
「ハーシー先生スパルタや」
「つまり、うちが言いたいことはな」

嘘を通してでしか、夢を見させてでしかつながれへん相手でも、ほんまのあんたを分け与えることはできる。

「あんたは宇治のまま、愛されたいとねがうその相手とも、心をかよわすことができる。ていうかそんなん、みんなやってる。せやからそれを負い目に感じたり、怖がったりせんでええよ」

ハーシーさんはそう言って、ふたつに分けたドーナツのうち、ひとつをむんずとつまんで口に入れた。

スマートフォンが鳴った。所定の二時間の終わりを告げるアラーム。普段はお客の前で鳴らさぬよう、五分前には切っているところ、今日は間に合わなかった。

「ごめん。終わりや」
「うん。終わり」
「えーっと、ハグする?」
「いらんよ」

うちもっかいシャワー浴びるさかい、その間に出ていき。

ハーシーさんは立ち上がり、スリッパをぱたぱたさせ、ベッド脇を入り口の方へ通り抜けて行こうとする。え、そんな感じ? とは思ったが、なるほどそんな感じか、ともまた思えた。

「あぁ、言っとくけど」立ち止まり、ハーシーさんは振り返る。「今日のお代、封筒に入れて置いていったりしたらしばくで」
「え、なんでわかったん」
「だいたいわかるわ」

どことなく嬉しそうなハーシーさんの顔が、部屋のオレンジ色の照明に翳る。

「ちゃんと最後まで夢にしぃ」

バスローブの襟を正して、ハーシーさんはユニットバスのある扉の向こうへ消える。薄い戸の向こうから、シャワーの水が床を叩く音が聞こえはじめる。

最後まで、夢にする。
最後まで、『宇治』でいる。

きっとそれは、例えばハーシーさんにとって、ユヅルさんにとって、おれがおれでいることを模っているもので。

空っぽなおれがおれをこの人たちに認めてもらうため、愛してもらえるため、不可欠な条件。

「むず」

理解でなく、受け入れることに対するつぶやき。
おそらく、この教えが身に染み込むには、時間がかかる。もしかしたら、一生かかっても無理かもしれない。

でも、そう言ってくれる人がいた。
その事実は、残りつづける。空っぽな自分の中に、ありつづける。

ふとした出来心と、たぶんこれが正解だという予感のもと、テーブルの紙ナプキン、ひとつだけ残ったドーナツの片割れを口に放りこんだ。もぐもぐと咀嚼しながら、ジャケットとコートを羽織り、かばんを持つ。部屋の出入り口へいくと、シャワーの音がボリュームを上げて鼓膜を打った。

出入り口のドアノブをひねり、押し開ける。必要最低限の隙間から、身体を外に出し、ドアを閉め、最後にドアノブを元通りに。一連の動きを、音を立てぬよう、細心の注意をはらって。

特に苦労もなく、『宇治』はそれをやってのける。
夢を夢のまま終わらせる。

次があってもできるだろう。
手先は器用な方だから。


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この作品は、次のヱリさんの小説に独自の解釈を加え執筆したものです。




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