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掌編小説

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2023年12月の記事一覧

【掌編】シーラカンスの鰭やさかいに

走らないのは、どうしてなの? 訊ねる僕に対し、平松君は堂々とした態度で答えた。 「シーラカンスの鰭やさかいに」 はて面妖な。 「その心は?」と問う僕もまた、スタート地点から一度も走っていないわけだけれど、それはつい先日まで風邪と診断され寝込んでいたから。平松君とは違い、きちんと先生に事前の承諾を得た、言わばライセンス持ちのウォーカーである。 うちの高校のマラソン大会は、市を南北に突っ切る一級河川、その一部を直方体で囲うようなルートを描く。よーいどんでピストルが鳴って

【掌編】上唇

月めくりと称して、貴方は私の上唇を吸い取る。 舌に貼り付く私のささくれ。 それを見せ、三日月の薄皮を剥ぐようである、と。 貴方はその細切れを器用に咀嚼し、嚥下、そしてまた私を吸う。 為されるがまま、自ずと漏れ出る息、声、熱に酔う。 「今日、ご主人様からお咎めを受けました」 激しさを増す呼吸の合間、口にする。 「どのように」 貴方は私を弄りながら。 「立つ姿勢がだらしない。歩く速度が緩慢だ」 「理由ではない。どのような折檻を受けた」 「あ」 一際か弱いところに

【掌編】ベロニカでは届かない

書く時間がもどかしい。思いながらも、僕はペンを走らせる。 初めて参加した即売会は、その界隈では有名なイベントだったらしい。ウェブで存在を知り、何の気なしに出店してみた僕は、当日になりようやくその規模の大きさを実感した。 端から端まで歩くだけで息切れしそうなほどに、広い会場。そこに所狭しと長机が並び、四桁に及ぶクリエイターがブースを構える。ただ薄い布を敷き、本を平積みしただけの自分とは異なり、棚を使ったディスプレイ、華やかなポップ類で集客を試みる周囲からは、この情報過多な空

【掌編】今ここにあるもの、ないもの。

街クジラが海岸に打ち上がった。 僕は君の手を引き、それを見に行く。 クジラやイルカが波打ち際で死を遂げる。度々見られる事象ではあるけれど、その理由については、未だ具に解明されていない。それはもちろん街クジラについても同様で、砂浜に横たわるその屍からは、何故こんなものがこんなところに、という違和感と、お前はまだわからぬだろうがこういうものなのだ、という説得力が漂っていた。 「あの中に、街があるの?」 君が訊ねる。 防波堤に腰掛け、僕と君は並んでいる。 「一説によればね」