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上杉謙信を何度も撃退した堅城 唐沢山城をご紹介

こんにちは、ゆうさいです。

今回は、関東七名城のひとつで以前から行ってみたかった城、唐佐和山城をご紹介したいと思います。

この城には、こんなエピソードが残されています。
城主が江戸の方角を見ていると、火災が起こっているのを発見します。
驚いた城主は早馬で江戸城へ駆けつけますが、そのことが「江戸を見下ろせる危険な城」として将軍徳川家康さんの不興を逆に買ってしまい廃城に至ったという悲しい話です。

そんな嘘か本当かわからない内容ではありますが、以前からずっと記憶に残っていて気になっていた城でした。

さてそんな唐沢山城ですが、築城については「平将門の乱」を平定した藤原秀郷(ふじわらひでさと)さんが築いたという伝承が残されています。

室町時代には、下総国を本拠とする古河公方に仕えていた下野国の有力国人の佐野氏により唐沢山城の改築・拡張工事は行われ、下野国有数の堅城に成長していきました。

その佐野氏の15代当主が、この唐沢山城で上杉謙信や後北条氏の軍勢を何度も撃退した戦上手、佐野昌綱(さのまさつな)さんです。

戦国時代に入ると、関東の地では徐々に古河公方の力は弱まり、南からは後北条氏、北からは上杉氏の勢力が拡大。
唐沢山城は、この二大勢力に挟まれるという厳しい時代を迎えることになりました。

昌綱さんはこのどちらかの勢力につくことを迫られ、まずは上杉氏に同調します。

1559年、敵となった北条軍が約3万5千の軍勢で唐沢山城を包囲しました。
昌綱さんは、予め要請していた上杉謙信(うえすぎけんしん)さんの援軍によって北条軍を撤退させることに成功。

その後も、昌綱さんは上杉謙信さんに臣従し、後北条氏が籠城する小田原城の攻囲軍として参加します。

しかし、難攻不落の小田原城を容易に落とすことができません。
冬の到来により帰路が閉ざされることを恐れた謙信さんは、軍を率いて越後へ撤退してしまいました。

そこへ待ってましたとばかりに北条軍が反撃を開始します。
北条氏康(ほうじょううじやす)さん率いる大軍が唐沢山城を攻めると、上杉の援軍を得られなかった昌綱さんは降伏。

これに怒った謙信さん。
昌綱さんが裏切ったとみなし、今度は謙信さん率いる上杉軍が唐沢山城は攻めたてます。
しかし、唐沢山城の防御力と冬の到来によりまたも上杉軍は一時撤退を決断しました。

春を迎えると、上杉軍は再び唐沢山城への攻撃を開始しますが、ここでも昌綱さんが守りを固めた唐沢山城を攻略するに至りませんでした。

そんな中、越中国で守護代の神保氏による反乱が勃発します。
謙信さんは、この鎮圧のために越中国へ兵を進めなければならずすぐに撤退。
これにより関東を戦場とした戦いは一時の終息を迎えました。

しかし謙信さんが越中国の反乱の鎮圧に成功すると、再び関東攻略に注力しはじめます。

関東へ進撃を開始した上杉軍は、みるみるうちに北条氏の城を落城させ、唐沢山城もその勢いを止めることはできず、遂には攻略されてしまいました。

しかし、当主の昌綱さんは処分を受けることなく、謙信さんに許されてそのまま唐沢山城の守備を任されます。
ところが昌綱さんは、謙信さんがこの地を離れた隙をついて再び反旗を翻しました。

再び裏切った昌綱さんを許すことはできない謙信さんは、早々に唐沢山城への攻撃を開始。

昌綱さんは徹底抗戦を試みますが多勢に無勢。
ついに上杉方の説得に応じて降伏しました。

今度ばかりは覚悟を決めた昌綱さんでしたが、周囲からの謙信さんへの助命嘆願もあり、なんとか命を拾うことになります。

その後も昌綱さんは、この地を守り生きのびるために、上杉氏と北條氏との間を行ったり来たりと関東の大勢力の状況に応じて味方する相手を変えながら何度も危機を乗り越えていきました。

唐沢山城での昌綱さんと上杉軍との最後の戦いにおいても、冬の到来により上杉軍は唐沢山城を攻略できず撤退しています。

昌綱さんが亡くなるとその嫡男、宗綱さんが跡を継ぎ城主となります。
昌綱さんの死後も度々も上杉軍に攻められますが、宗綱さんは自身の知略と唐沢山城をもって何度も撃退しました。

しかし本能寺の変が起こると、宗綱さんは滝川一益率いる織田方の軍に合流し、北条氏と対立。
残念なことにその戦いにおいて宗綱さんは討死してしまいました。

当主を失った唐沢山城では次期当主を巡って、佐竹氏から迎えるか、北条氏から迎えるかで重臣同士の対立が勃発。
結果的には、北条氏康さんの五男の氏忠さんを養子として迎え、佐野氏忠として佐野氏は引き継がれました。

このように北条氏に事実上吸収された形となった佐野氏ですが、北条氏から養子を迎えることに反対だった昌綱さんの弟の佐野房綱さんや重臣はその際にことごとく出奔。

後に豊臣秀吉さんに仕え、小田原征伐にも参陣した戦功が評価され、一時は断絶した佐野氏を房綱さんが継ぐことで、唐沢山城への帰還は叶えられなかったものの血縁でのお家再興は果たすことができました。

秀吉さんの死後、天下分け目といわれる関ヶ原の戦いが起こると、房綱さんの跡を継いだ信吉さんは東軍として参戦。
その際の戦功を認められ、3万5千石の旧領であるこの地を与えられ、佐野氏が念願の唐沢山城の城主として返り咲きました。

その後の1602年。
信吉さんは、唐沢山城の麓に新たに佐野城を築城。
そこへ移り領国の経営を行うこととしたため、唐沢山城はその長い歴史に幕を下ろすことになりました。


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