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石見銀山を守る重要な城、山吹城をご紹介(後編)

こんいちは、ゆうさいです。

今回は、前回の投稿に引き続き、山吹城をご紹介します。
前編をまだお読みでない方は、ぜひこちらを先に読んでから後編に進んでいただければと思います。


1551年、周防国の守護大名の大内義隆(おおうちよしたか)さんが重臣である陶晴賢(すえはるかた)さんの謀反により攻められ自害するという「大寧時の変」が起こります。

陶晴賢さんは、義隆さんの養子となっていた大友義鎮さんの弟の大友晴英(おおともあるひで)さんを大内家の新当主として擁立することで、大内家の実権を掌握。
ところが毛利元就(もうりもとなり)さんとの「厳島の戦い」で破れ討死したことにより、今度は元就さんが中国地方で勢力を伸ばすきっかけとなり、その後の石見銀山争奪戦にも加わっていくことになりました。

当時の山吹城守将の刺賀長信(さすかながのぶ)さんは、毛利氏に臣従し1556年には山吹城と銀山は毛利氏の勢力下に入ります。

しかし1558年、尼子晴久(あまごはるひさ)さんが山吹城を攻めて毛利軍を破ると、城主の刺賀長信さんはその場で自害しました。
銀山を独占できた尼子氏は、この戦勝に功のあった本城常光(ほんじょうつねみつ)さんを城主とします。

常光さんは石見国人でありながら、尼子家直臣と同じ待遇を受けていたといわれていますから、尼子晴久さんの信頼のほどがうかがえますね。

毛利氏も負けじと翌年には再び山吹城奪還のために攻め込みますが、名将本城常光さんの前に敗退します。
しかし、その後に尼子晴久さんが急死しその子義久(よしひさ)さんが跡を継いだことで状況は一変します。

将軍足利義輝(あしかがよしあき)さんが仲介となった尼子氏と毛利氏との和平交渉で、元就さんが提示した「石見不干渉」という条件に対し、なんと義久さんは受諾。
これにより、立場を失った石見の尼子家臣は大きく動揺してしまいます。

それを利用した毛利元就さんは早速石見へ侵攻し、戦意の落ちた山吹城を大軍で包囲すると、城主の本城常光さんもやむなく降伏しました。
山吹城が毛利方の手に落ちた直後に、城主の常光さんは元就さんに暗殺されてしまいました。

その後、山吹城には吉川元春(きっかわもとはる)さんの家臣の森脇市郎左衛門(もりわきいちろうざえもん)さんが入り、毛利家はその支配体制をより強固なものにしていきます。

しかし関ヶ原の戦い後、毛利氏が周防一国に転封となると、石見銀山は幕府領となり、大久保長安(おおくぼながやす)さんが石見銀山検分役として山吹城に入ります。
長安さんは山吹城を改修して銀の精錬所を置きますが、翌年には大森代官所に拠点を移したことで山吹城は廃城となりました。

山吹城本丸跡までの登山ルートは主に2つ。
いずれもかなりの心臓破りな山道でした。
石見銀山とセットで行かれる方は、事前の準備をして登城されることをおすすめします。

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