明智光秀の築城と伝わる大城郭、周山城をご紹介
こんにちは、ゆうさいです。
今回は、京都市右京区にある明智光秀が築いたといわれる丹波の大規模城郭、「周山城」をご紹介したいと思います。
この周山城は、完成後間もなく「本能寺の変」とともに歴史の表舞台から姿を消した城の遺構が現在も遺されている貴重な城郭です。
以前からその存在は知っていたものの、なかなか行く機会がありませんでしたが、「周山城址を守る会」の栗山元伸会長にご案内いただき登城してきました。
大手門跡と伝わる場所から本丸跡を目指しましたが、序盤からかなり急峻で細い登山道に驚きました。
途中、谷側に目をやるとその坂の角度に腰がひけ、先日登城した鎌刃城が思い出されました。
「鍛冶屋」と掲げられた案内板が立つ曲輪を背に、少し坂を登った場所からは、城の東側が良く見渡せます。
眼下には大堰川(上桂川)と弓削川が流れその合流地点が観られます。
昔からこの地は禁裏の直轄領だったことから、禁裏で使われる木材は、この辺りからも切り出され運搬されたといわれています。
また、「西の鯖街道」と呼ばれた若狭から京都へ繋がる街道や、近江へと繋がる街道も確認でき、築城当時この地が「交通の要衝」だったこともよく理解できました。
禁裏の直轄領といわれるこの地に、これだけの城が築かれたというのも頷ける。
この周山城ですが、織田信長の命により丹波平定を行った明智光秀が、若狭国と京を結ぶ周山街道の抑えとして築城したと考えられています。
その規模は、南北600m・東西1300mに広がり、標高480mの山の尾根を巧みに利用して築かれています。
城郭は「東の城」と「西の城」の2つあり、「東の城」は立派な石垣で囲まれ、壊された天守台跡や当時使われたと思われる井戸も遺されているため、かなり見応えがありました。
主郭跡からは、瓦葺きの建造物が建てられていたのか、瓦も見つけました。
特に石垣は、曲輪を囲むように大規模につくられていて、土に埋まっているところが露わになれば、当時の壮大な城がよりリアルに感じられると思います。
二ノ丸から主郭に登る坂には、壊されてはいるものの道の両側に登り石垣のような遺構も見られ新鮮でした。
文化庁の調査も進んでいるようですので、もし史跡に指定されたらもっと注目を集める城になるんだろうな。
でも、この山には30名以上の地権者がおられるそうなので、それまでの交渉などが大変そう...。
築城後の周山城には、城主として光秀の宿老の一人、明智光忠が入ったと伝わっています。
天正9年には光秀が茶人の津田宗久をこの城に招き、月見をしたということが「津田宗久茶湯日記」に記されているそうです。
ここからだと素晴らしいな月が観れたでしょうね。