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悲愴に暮れる

私と同じく寝ぼけている電車の中で浅く息をしながら、車窓に投影されたいつかの景色を眺めていた。

今にも折れそうな下弦の月が、柔らかく燃える空に浮かぶも刹那。街の路地や窓が白く光り出し、永遠かと思われたそれはあっという間に鎮火された。
向こうで鳥が二羽飛び立ち、やがて電車と肩を並べ、朝の纏う霧を掴んでみるみると追い抜くと、よだかを仰いで昇って逝くのだった。

いつの間に、朝陽に焼かれた冬の遺灰が丁寧に電車内に撒かれていた。
電球色の太陽が破顔するのを確かに視界に収めると、僕はようやく眠りに就く。心に潜って見ていたのは、昨日探しに行った、思い出のこびりつき達だった。

四時間ほどかけてようやくそこへたどり着くと、何度も肺に入れたあの空気が変わらずに僕を出迎えてくれた。これと言って目立つ建物もないしバスは一時間に一本だし、無駄にコンビニの駐車場が広い。
蝉がこの町にふさわしいボリュームで詩を詠む。
一句読み終えるのを待てずに、僕は息を切らせて汗を何度も拭う。たまに良い詩が聞こえてくると足取りが軽くなったりした。

数分歩いたところで、昔通っていた高校に着く。
別に大事な用事があるわけではないのだが、帰省するついでに寄ってもいいかと顧問の先生に連絡したところ快諾してくれたので、なんとなくこうして立ち寄ったわけである。

入校許可証をまだ火照る手で受取ると、乱雑に靴を脱いで、丁寧に揃えて目的の場所へ向かう。
休日なので生徒もまばらで、たまにぎこちないお辞儀と不思議そうな目線と挨拶を受け取るくらいだ。ポケットに一応仕舞って階段を上る。
「きつすぎないか」
まだ卒業してから四年しかたってないのに、息の切れ具合と乳酸の溜まり具合が尋常じゃない。
そろそろ登りきるところだ。もはや登山だ。
「あっ、こんにち、、」
影が見えたので反射的に挨拶したのだが、ただの隅に追いやられている譜面台たちだった。あのがっしりしたやつだ。埃は被っていないので、恐らく掃除か楽器の積み込みの際にでものけたのだろう。

夏の日差しと、ろ過された蝉の詩がつまらなく廊下に響き渡る。
ふぅ と一つ息を吐くと、私はゆっくり音楽室の扉を開ける。
そして灰が破れそうになるまで息を吸ったのだが、もう当時の様には満たされなかった。だがほんの少しだけ、四年前の音に触れることが出来た。
今はもうそれだけで充分だった。

広い教壇の上にある、いつからあるか分からない程古くてかび臭い図書館の司書のような佇まいのグランドピアノの椅子に座る。
ラの音を抑えると、オーボエの音色が流れ出した。
ふと右を向くと、オーケストラがチューニングを始めていた。
私は息を震わせながら、「はぇあ、」とこぼすばかりで、一時動けなくなった。

当たり前のように先生が指揮台の上でタクトを振るう。
コントラバスが地を這うように呼吸を始めると、それに起こされたファゴットの旋律が、墨色の海を深く深く潜る。
海上は嫌に静かで、空模様だけが自傷的な怒りを湛えている。
ビオラが雷鳴を。一度静まったかのように見えたがそれも束の間。海底と空が、苦しい痛いと暴れ出した。
しかしその隙間に快楽が垣間見え、手を伸ばすのを躊躇する。
こうして双極の感情がないまぜになったような主題で始まる。
チャイコフスキー交響曲第6番『悲愴』である。

曲はオーケストラを引き連れて、海底も空も何もかもを抉り取るようにして進んでいき、やがて第一楽章はクライマックスを迎える。それはまるで、心臓を自ら抜き取って泣き笑い、絶叫している化け物の讃美歌だった。
しかしその化け物は「幸せだ」というのだ。

私はそれから必死になって弾いた。指に痛みが走ろうが、息が上手く吸えなかろうが、弦を必死に抑え、弓が弦を捉える。
打って変わって天国のような第二楽章。焦燥と興奮。
次に、余りの勇ましさにこちらまで脈拍が早くなって血管が切れてしまいそうな第三楽章。
そして終楽章。1stバイオリンと2ndバイオリンが交互に旋律を奏でる。一音目を弾いた瞬間、視界がぼやけて、喉が詰まる。
絶望の淵に住み、すべてを受け入れるような。それでも、どうしても溢れ出る絶望と嗚咽。休符にも隙間なくそれらは敷き詰められており、成す術がなかった。

指揮台に立つ先生が指揮棒を下ろすのを待たずに、私はバイオリンを抱えたまま床に突っ伏した。コトリと弓が床に落ちる。
茜の差すステージから誰もいなくなっても、起き上がらずにそのまま死体の様に横たわっていた。
校舎が崩れ落ちて、私は瓦礫の下敷きになって潰され、やがて腐り、土へと還った。それからしばらくは晴れが続いた。
抱えていたバイオリンだけは綺麗に生き残り、ずっと一人きりで歌を歌っていた。だがよく周りの音を聴けば、蝉の詠む詩や、そばの踏切の音。通り過ぎる子供らの声とセッションしている様にも聴こえた。

やがて水面の様に波立つ空に手繰られ、蛍となって新品の夜空の光に当てられて飛び立つ。
星達の中にいっそう激しく燃える星が見える。きっと私はそれに向かって飛ぶのだろう。
夜が明けるのをずっと待っている。
そして命が暮れる前に、また同じように、墨色の海へ身を投げるだろう。
空模様がまた燻りだす。私は構わず雲の中を進む。

雷に打たれたところで目が覚める。丁度降りる駅に着いた頃だった。
3月だというのに酷く汗をかいている。抱えているギターケースも涙に降られていた。
駅を出て目に飛び込んできた光は、幼少期と違って酷く悲しく、空しくて、私の事をいつも通り無視していたが、構わず帰路に着く。
「帰ったら曲作るか」
そう小さく呟いて、ギターを背負い直す。


そこまで書いて窓の外を自室から眺めると、さっきまで晴れていた空がいつの間にか曇っていた。だがこのBGMとよく似合っているので、悪い気はしなかった。


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